戦争の原因は本当に「食料」や「資源」なのか

 私たち日本人は戦争をしてはいけないと強く教えられて育った。
 なぜ戦争をしてはいけないか、考えたり意見を述べることは、禁止されてはいない。むしろ、奨励されているくらいだ。

 しかし「場合によって、戦争も手段のひとつとなり得る」という意見を言うことは、ほぼ禁止されているも同然である。その理由を探り始めると、ぐだぐだになる。
「戦争は悲惨だから」
「人の命は大事だから」
「結局誰も得しないから」
「余計なお金がかかるから」
 全部敗戦国の主観だ。

 ともあれ。
「もう二度と敗戦国になりたくない」
 というのは、もっともなことだ。正当な理屈でもある。

「敵対国を敗戦国にしたくない」
 というところまで人道主義を貫くなら、私はその人を褒めたい。
 しかし実際の日本人は、敵対国が衰退したり悲惨な目にあっていることを喜ぶ傾向があるみたいだから、私はそこまで高く日本人を評価できない。


 残念ながら世界規模で見ると「戦争は避けたほうがいいが、避けられない場面もある」という見解持っている人が大多数である。
 その「避けられない場面」というのが「戦争の原因」そのものである。

 食料や資源は、資本主義にどっぷりつかっている私たちにとって、一番戦争に直結しそうな原因である。だから、十分な食料や資源さえあれば、誰も戦争なんてしない、なんて考え始める。

 それは原始的な考えである。飢えをしのぐために隣の村を襲うようなノリで国家を運営するのは、近代以前の国家の在り方だ。近代以降の歴史を冷静に見ていると、戦争の原因は決して食料や資源にあるわけではないことがある。
 むしろ、食料や資源は「戦争に必要だから」求められているように見受けられる。
 言ってしまえば、大規模な戦争を引き起こせるのは、食料や資源に余裕がある国だけなのである。
(実際、戦争ほど食料と資源を消費するものはない)(兵士は本質的に非生産的であるから、その意味ではただ飯食らいである)

 近代以降の戦争の原因は、私たちが想像するよりもずっと単純だ。

 子供同士の喧嘩と同じなのである。
「あいつらの考え(イデオロギー)が気に入らない」
「あいつらが関税を引き上げたせいで、うちの経済が滞った」
「俺たちはもっとたくさんの国を従えたい」
「理由もなくあいつらにひどい目にあわされた」

 ひとつひとつの戦争を細かく見てみると、それが非常に複雑な要因が絡み合って出来ているように見える。当然、止めるのはとても難しい。しかし、それが単純な理由で動いていることに変わりはなく、実のところ、戦争を引き起こすのはそれほど難しくないのだ。

 戦争を止めるのは困難。戦争を引き起こすのは簡単。
 これは、人を怒らせるのは簡単だが、怒っている人をなだめるのは難しいというのにとてもよく似ている。

 民主主義社会が引き起こす戦争は、常に大衆がそれに同意を与えることで動き始める。
 戦争を防ぐ最善の方法は、大衆に不満を持たせないことである。大衆に、他国への怒りや憎しみを抱かせないことである。

 怒っている人に「怒らないで!」と言うことに、どれだけの意味があるだろう? 戦争は悪、平和は善、という思想を持つのはいいが、それを全世界に押し付けるのは、それもまた戦争の一要因になりうる。
 喧嘩してはいけません、と教えて意味があるのは、こちらが圧倒的な戦力を持っている場合のみである。
 本質的に、子供が別の子供に対してそんなことを言ったって意味はない。その子が従っているのは思想にではなく、力にである。
 民主主義社会の国家(≒大衆)とは本質的に子供であること、そして国家が従うのは善悪ではなく力であること。
 それが民主主義社会ではなく、独裁政治や軍人政治だとしても、同じである。本質的に権力を持つと人間は自らの精神性の幼さを暴露せざるを得ない。たとえその人間が世の道理や自らの信ずる善悪を基に動いていたとしても、それを他者に無理やり押し付けている時点で、彼が用いているのは思想ではなく力である。

 人間というのは、私たちが思っているほど賢くない。過大評価しないようにしよう。

 ほとんどの人は善悪ではなく力に従う。

 それを忘れないようにしよう。


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