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本当は怖いドキュメンタリーのはなし

 明日、2023年1月6日、先行上映・学生試写でドキュメンタリー映画『世界で戦うフィルムたち』をユーロライブで皆さんにお見せする前に、どうしても書いておきたいことがある。この1年間自分がずっと怯え続けていたことについて。

 本当は劇場本公開の時まで留めておこうかとも思ったけれども、期せずして見てしまった宮崎駿監督作品『もののけ姫』のメイキングドキュメンタリーのDVD、『「もののけ姫」はこうして生まれた。』の中にも自分が『世界で戦うフィルムたち』の編集中に感じていたことと全く同じ事がナレーションされていたので、いま、このタイミングで書かずにはおれなかった。

映画が映画になろうとする時、人は映画の僕(しもべ)になる。

「もののけ姫」はこうして生まれた。ナレーションより

 この現象が、はっきりと本作を編集している最中に起こっていたかどうか、僕には分からない。(しもべ、にかけて以後の一人称は「僕」にしてみることにする)しかし、フィクション作品を作る時以上に「自分とは関係ないところ、もっと外側から発生する物語」の存在に翻弄され続けていた記憶が今も鮮明に残っている。これはドキュメンタリーならではのもの、だったのだろうか?

 明日、渋谷はユーロライブで上映になる本作『世界で戦うフィルムたち』は、コロナ禍における海外の映画祭の様子とそれに果敢(無謀?)にも挑戦しようとする僕自身の記録、そして非常に数多くの新進気鋭の監督陣・俳優陣と日本のみならず海外からも高く評価をされる監督・俳優の方々からのインタビューを交えた、まさに冒険譚ともロードムービーとも言えるようなドキュメンタリー映画だ。

 そう、今でこそこのように客観的に端的に表現できるようになっているが、本作を撮影・編集していた頃、僕にはこのドキュメンタリーが一体何になるのか、誰に届くものになるのか、そして自分自身にとってもどんな意味があるものになるのか、全く想像がついていなかった。アメリカ、そしてイギリスでの20日以上に及ぶ映画祭の記録と、日本帰国後に27名もの方々にお話を伺う中で、その素材の量はゆうに30時間を超えていた。厳密にカウント出来ていないが、実際はもっとあったかもしれない。そんな膨大な素材を、いったいどのように2時間に収めれば良いというのだろうか。取材を続ける中で薄々と勘づいてはいたが「9割方の素材を切らなければならない」ということの重大さ、その重圧に、撮影当時の僕はまったく鈍感だったのだ。

 編集に手をつけ始めた頃、僕は混乱した。何せ含まれている要素、話されている議題が、この素材たちの中には多すぎる。とてもじゃないが2時間になどおさめられない。おまけに、取材相手の中にはこの世界の重鎮の方もおられる。彼らの言葉をそんな易々と、切れる、わけが、ない。キーボードのショートカットを打つ手が止まった。どうしても切れない。怖すぎる。なんでこんなこと僕がやらなきゃならないんだとさえ思った。いや、でも元凶は自分だからしょうがない、となんとかショートカットキーを打ち続けたが、果たしてこれで彼らの言葉は正しく観客に届くのだろうか?間違って受け取られたりしないだろうか?万が一この映画の一部を切り取られてミスリード的に流布されてしまったら?迷いは際限なく湧き続けていた。

 ドキュメンタリーの編集がこんなにも怖いものだとは。

 学生時代にも課題でドキュメンタリーを撮ったことがあった。その時は取材対象の人物が当初の僕の目論みとは違う方向に結末を迎えてしまったので「まあこれこそがドキュメンタリーなんだよな」みたいなことを恩師にカラカラと笑われた。あの時は笑い話で済んだが、今度はそうはいかない。

 この作品に関わって言葉を向けてくださった27人のその後がかかっている。ドキュメンタリーはフィクションじゃない。当たり前だが、ドキュメンタリーは、フィクションじゃないんだ。怖すぎて、編集したものを何度もやり直す日々が繰り返された。なんとか3時間にまで切ったが、そこから一向に削れない。彼らの言葉をつぎはぎにしてゾンビを生み出しているような気さえして吐き気がした。フィクションの方がどれほど楽か思い知らされた。いや、楽というのは語弊があるが、フィクションはまず前提として「嘘」なのだ。だからその中で何が起ころうとも、登場人物と画面に映るその人そのものは切り離されている。だがドキュメンタリーはそうはいかない。そうして迷いながら編集しているうちに、言いたいこともまばらな3時間の化け物が生まれてしまった。

 まったく腹が括れないでいる時、ある人物から「ドキュメンタリーもフィクションと同じように構成したら良いのでは?」とアイディアをいただいた。これが最初は上手く飲み込めないでいたが、事実を事実として並べる編集の視点から、物語的な緩急もしくはまとまり、のようなものを意識し始めた時、ふと「自分の言いたいこと(ミクロ)」ではなく「この素材たちが言いたいこと(マクロ)」が繋がるような気がした。気のせいかもしれないが、この物語のテーマは「〇〇する人々」だと、うっすら見えてきた。だとすれば、その「まとまりの真実」に沿うように切ればきっと彼ら27名の言葉がきちんと生きた、「生きた映画」になるのではないか。

 「映画が映画になろうとする時」

 これを今まで感じだことがなかったが、なぜか今回は感じた気がする。僕(しもべ)にならなければ、今回は乗り越えられなかった。

 基本的に僕は「自分が表現したいもの」というよりも「観客の前にあるべきもの」を考えたり生み出す能力の方が強いと自分自身で捉えているが、今回の感覚は、この恐ろしく苦しい過程は、映画を血肉の備わった生き物にするために必要な儀礼だった、のかもしれない。…ということにしておかなければ怖くて苦しくて仕方がない。毎度こんな思いをしなければいけないのは、正直嫌だ。けれども、

 …けれども、嫌だけれどもこの恐怖に立ち向かう才能がある、ということに不幸にも今回気付いてしまったのだ。どうしたらいい?こんなにも気持ちの悪い、他者の言葉を切り刻むという恐ろしい工程にもなんとか耐えうる身体と精神を持ち合わせていることを発見してしまった今、馬鹿で貧乏性な僕はこの能力を活かさなければと躍起になりつつもある。恐ろしい。本当にしもべになってしまったのだろうか?寿命が縮むような思いをしたにも関わらず?しもべになって一体なんの得がある?分からない。

 そしてこんな思いをさせられた上で、また、世にあるドキュメンタリー作品はこうした苦しみを経て生み出されたものだと身をもって知った上で、まだ僕は平然とドキュメンタリーを見続けている。一体自分はどうしてしまったんだ。

 混乱と混沌と、今もその中を僕の血が巡っているような気がする。

 これは決して懺悔や言い訳ではない。『世界で戦うフィルムたち』が、僕の旅の時間と27人の言葉に、僕が真剣に向き合った結果であることに嘘偽りはない。けれどその過程には、恐ろしく苦しい時間があったことも、僕自身のために書き残しておきたい。

 明日、皆さんがこの映画から何を受け取るかは自由だ。しかしその中には「切り落とされた9割」が存在することも忘れないでほしい。僕らは美しい花だけを摘んで花束にするような職業。その裏側にはちゃんと「編集」という恐ろしい行為が存在することも、忘れないでほしい。

 そして、こんな思いをした上でまだ映画をやろうとしている僕を、願わくば僕たちを、もうしばし、見守っていただきたい。

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