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無音の増幅

・昨日は忙しい日だった。遠方で行われる治験の事後検診が朝にあり、それを済ませ自宅に帰った後、8/31で期限を迎える銭湯の回数券を使うのと、加えて同日に上映終了する映画スラムダンクを観る必要があったのだ。
映画と銭湯に関しては8月中いつでもいけたので、この忙しさは先延ばしにしまくった自分のせいである。

・銭湯の休憩スペースで「嘘喰い」を少し読んだあと、お風呂に入りサウナで整いをした。
銭湯は「整う」という概念を知ってからよく行くようになった。ととのいは気持ちがいいが時間がかかるのがネックだ。早い時間に行ったが、出る頃にはすっかり夜になってしまった。

・思ったより時間がなくなってしまったので、夜ご飯は映画館と同じ商業施設に入っているスーパーの半額弁当をイートインスペースで食べた。我ながらいい選択だ。時間ギリギリでうまいことやりくりできると、理論値に近い動きができたという感じがして気分が良い。

この段階になってくると、侘びしさが逆に美味しさに寄与してくる。

・レイトショーといえば席がガラガラの中で見るのが醍醐味というか、そういうものだと思っていたが、上映最終日ということもありほぼ満席だった。レイトショーの空気感を体験するのは次の機会に持ち越し。

・スラムダンク。やはり最高。
原作ではかなり重厚に描かれているシーンが映像ではあっさりめな感じで過ぎたりする。贅沢な見どころが満載の試合をリアルタイムで観戦しているような気分だ。

・サブスクなどで映画が比較的容易に見れる今、あえて映画館で観る理由の一つに無音のシーンが生み出す独特の空気がある。
僕がこれを初めて体験したのは、2,3年前にリバイバル上映を行っていたもののけ姫を観に行った時。シシ神様が登場するシーンで唐突にそれは起こった。
観客の誰もが口をつぐみ、とてつもない静寂に支配される。吐息すら聞こえない。その場にいる人数の多さを知っているからこそ、この静寂は日常で味わうものより格段に静かで、重く感じる。
この感覚はもう体験と言ってもいいくらい「観る」という行為から逸脱していて、スクリーンの中で起きていることが本当に我が身に関わることだと錯覚してしまう。
スラムダンクにもそのようなシーンがあり、もう見たことがあるのに、初回の視聴時と同じように息を呑み…いや、息が止まった。息が吸えなかったもう。良すぎ…。

・ニュースで新学期の始まりを報道していた。夏休み最終日まで宿題を溜め込むのは、だらしない生徒あるあるだが、そんな僕はご多分に漏れず溜め込むタイプだった。というか学校始まってもまだ終わってない時すらあった。「やったけど家に忘れてきた」というやつだ。本当にあれを言っていた。愚か。

・男女問わず計画的に夏休みの宿題をこなせる人はクラスの半数〜三分の一くらいいたように記憶しているが、ふと、小中学生の時点で「しなければいけないことを、計画的に行うスキル」を持ってるのすごすぎない?と思った。
いま僕が必死こいて習慣化みたいなことを試みたりして、それでも未だに上手く行っていないことを、はるか昔にできるようになってる人種がいる。そんな当たり前の事実にこの前気づいて愕然とした。
だとすれば、差が開きすぎてないか?能力的に。
このスキルがあれば、大抵のことが上手く行く気がするんだけども。そんなチートスキルを持つ人間がクラスに一定数存在していたことに震える。
親がめちゃくちゃに厳しいとかそういうこともあるだろうから実態はわからないけど。
どうせ皆やってないから僕も宿題やらなくて良いや〜なんて思ってたのがもったいない。
勉強は今でもできるけど、肝心の学習効率を左右するこのスキルは今、独力ではなかなか習得し難い。

・自分が不安障害であるという病識を最近有効に扱えている気がする。
不安が膨らんできそうなタイミングで、「これは病気によるものだから、向き合う必要はない」と意識すると、その不安が割りとたやすくしぼんでくれる。
これは今たまたまメンタルの波が上向きなせいなのか、常時使える技なのかを見極めることが重要だ。

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