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学校の「当たり前」はやめてもよいか?・小さな教育情報

諏訪哲ニ氏の著書『学校の「当たり前」をやめてはいけない!』(現代書館)の紹介です。

内容は一時期話題になった工藤勇一(麹町中校長)著『学校の「当たり前」をやめた』(時事通信社)への批判的検討です。詳しい内容を知りたい方はぜひお読み下さい。

元小学校教員としていろいろと知的刺激を受けましたが、読了して、概ね諏訪氏の意見に近いことがわかりました。

その中で諏訪氏が提起しているキモの部分をご紹介します。

氏は、学校は「人間形成」から「人材育成」へと立ち位置を移しているが、これは本当に正しいのか?という提起をしています。

じつはここが学校の「当たり前」をやめる、やめないのポイントになっています。

ちなみに諏訪氏が批判する工藤氏は、定期考査をやめる、担任制をやめる、宿題をやめる、体育祭のクラス対抗をやめる、などを実施したそうです。

私は、小学校でも4年生ぐらいから定期考査するべきだし、運動会は紅白でいいので対抗戦にすべしと考えていますが、担任制は3年生あたりから廃止、宿題も保護者によって考え方があまりにも違うので廃止でいいかと思ってます。

ですからこれだけで考えるなら「人間形成」抜きはありえないけど「人材育成」へとシフトする部分も必要というハーフ&ハーフの中途半端なスタンスになるかなと思います。

諏訪氏が言っているのはもっと根本的なところにあるのですが、皆さんもこの二者択一の観点で自分の学校観を点検してみることをオススメします。

最後に印象に残った諏訪氏の鋭い分析を少々長いのですが引用します。

「小学校1年生にこの担任は本当にいい担任なのかダメな担任なのかなどと考えさせてはいけないのだ。出発点は学校や教師や学校で教えることをまず信じてもらうことである。学校は人間的成長の「手段」のひとつ(工藤氏の言)であると距離を置いて冷ややかに眺めることではない。それは近代的な個人に近づいていくことによってだんだんとわかってうくことである。学校生活を通じてさまざまに現れてくる世の中や人間のあり方を、いちいち子どもが自分の考えや感性に合わせて納得しようとしたら、個人の基礎は創られていかない。個人の基礎は、成長過程から類推できるように共同体的なものである」(p147)

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