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ウイグルの王妃を描いた戦争画・橋本関雪「香妃戎装」~戦争画よ!教室でよみがえれ㉗

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ 

(6)ウイグルの王妃を描いた戦争画・橋本関雪「香妃戎装」ー戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究⑧

橋本関雪「香妃戎装」1944年

 美しい女性が描かれている。その顔立ちには気品があり、頭や首に装着した美しい飾りから高貴な身分であることがわかる。

 まっすぐな鼻筋と三日月のような眉はその気の強さを感じさせるが、目は優しく穏やかだ。さらに、純白の犬が安心して寄り添う姿にこの女性の純粋な内面が表現されている。

 着ているのは鎧。剣も持っている。だからだろうか、優しさを感じさせながらもその立ち振る舞いに隙がない

 この絵は橋本関雪『香妃戎装』という。

 〝香妃〟とは伝説上のウイグルの王妃である。絶世の美女と言われ、その体から香しいにおいが漂っていたという伝説からこの名が付けられた。

 〝戎装〟の〝戎〟とは「荒々しい人」「荒くれ武士」の意味があるが、「西戎」という言葉があるように古代中国では西方の異民族の呼称でもある。ウイグルの美しい王妃が荒くれ者のような装いをしている様をタイトルにしているのだろう。

 この香妃には有名な伝説がある。その伝説がこの絵のモチーフになっている(なお、香妃伝説には様々なバージョンがあるようだ)。

  中国・清王朝の乾隆帝の時代は清朝の全盛期であり、最大の領域を誇っていた。この頃、西方のウイグルに体からよい香りを放つという絶世の美女・香妃がいた。その美しさは遠く離れた清王朝にも伝わっていた。
 しかし清王朝がカシュガルを陥落させたときに夫は戦死。香妃は捕らえられ北京へと連れていかれる。乾隆帝は彼女の美しさに心を奪われ、後宮に入れる。
 乾隆帝は香妃のために紫禁城の中にウイグル式の宮殿を建て、アーチ型の屋根をつけたトルコ風呂も設け、羊の乳で入浴させた。だが、香妃は前夫への貞節を守って寵愛を受けず、懐に短刀を忍ばせていた。

 さて、この絵を西原大輔氏は次のように読み解いている。

「《香妃戎装》が制作された一九四四(昭和十九)年は、日本が軍事的に追いつめられつつあった戦争末期で、国内では婦人の戦争協力が強く求められた時代であった。この文脈に絵を置いてみるならば、武装した女の肖像が、いかに時流に応じた図像であるかが理解できる」(西原大輔『ミネルヴァ日本評伝選 橋本関雪ー師とするものは支那の自然ー』ミネルヴァ書房 p242)

 確かに、閑雪にはこのような制作意図があったのかもしれない。だが、これだけだろうか。この絵の意味をもっと巨視的に見る必要はないだろうか? 

 当時の内モンゴル(現在は中国の自治区)は日本の勢力圏だったが、その西にある寧夏省・甘粛省・青海省は勢力圏外だった。ここには漢人だけでなくモンゴル人・チベット人・ウイグル人等が割拠していて、そこへ潜入して諜報活動をする日本人がいた。

 例えば、関岡英之氏は当時モンゴル工作員として活動していた西川一三の志とその意味を次のように述べている。

「インドに進出しようとしていた皇軍と、シナの背後を包囲する内蒙、西北シナ、チベット諸民族と手を握らせる大きな包囲戦線を固めてみたいという、途方もない夢を描いていた」(関岡英之『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」』祥伝社 p43)
「これは西北民族の包囲網を以てシナを攻略するという一大政策であり、蒙古族、チベット族を友として漢民族を包囲する体制をつくり上げることこそシナ事変解決の鍵であったのである」(前掲書 p43)

 同じく関岡氏はアフガニスタン公使だった北田正元の業績にも言及している。イスラム外交の重要性を認識しいていた北田は、自力でソ連を駆逐したいという亡命ウイグル人のムハンマド・イミン・ボグラと頻繁に接触していた。北田は極秘公電の中で次のように言っていたという。

「東トルキスタン領内の情勢は日本にすこぶる有利で、英国やソ連に不利となっているという。なぜなら日本はなんらの努力を払わずとも、ただアジアの有色人種のなかでほとんど唯一の強国として世界に闊歩しつつあること自体が、全アジア民族に対し大いなる光明を投げかけており、それが中央アジア諸民族の精神に及ぼす影響は、日本人が想像する以上のものがあることを、中央アジアに在勤する者として痛切に感じるからだという」(前掲書 p217)

 関岡氏は当時の日本にあった「新疆革新計画」が実現していれば東の満州国から中央には親日の徳王を首班とするモンゴル国家、そして西にはボグラを首班とする東トルキスタンのイスラム国家が建国して、共産主義思想のアジア世界侵入を阻む「防共回廊」の壁ができていただろうと言う。もしかしたら、現在の中国共産党によるウイグル及び南モンゴルでの非道な弾圧と虐殺を日本の手で防ぐことができたかもしれないのだ。

 さて、ここで橋本関雪の絵に戻ろう。

 関雪がこうした国家レベルの政策を知っていたとは思えない。だが、当時の日本の知識人ならば中国を取り巻く地政学的な知識とそれをもとにした見解を持っていてもおかしくはない。じつは閑雪は、中国の古典に精通した中国通だった。中国大陸への渡航経験が豊富で、満州国の要人である鄭孝胥とも面識があった。その閑雪が自著エッセイの中こんなことを書いている(※引用者が旧仮名遣いを改めている)。

「私らは一口に支那人と云ってしまうが、果してあの偉大なる幾多の芸術が、支那本土の前住民によっ成されたであろうか。三代のことはしばらく措き、漢代すでに西部アジアより移流民族のあったことは、その遺品が何よりも雄弁に物語るところである」(橋本関雪『白沙村人随筆』中央公論社 p208)

 私は、関雪は美術を中心とする中国や西アジアについての知見を出発点にして、日本とモンゴル・チベット・ウイグル等が手を携えることの意味を理解していたのではないかと推測している。

 そうすると、あの武装した美しいウイグル王妃を描いた『香妃戎装』のもつ意味はじつに深いもの見えてくる。あの絵は中国の圧政やソ連の共産主義勢力に対して自衛し、東方にいる〝友〟を待つウイグル人たちになぞらえて描かれているのではないか

 さて、別の人が香妃を描いたとされる絵がある。

香妃肖像画①

香妃肖像画②

香妃肖像画④

 これらは清朝期に宮廷画家となったイタリア人宣教師ジュゼッペ・カスティリオーネが描いたとされているものだが、これらを関雪はどこかで見て参考にしているかもしれない(とくに上から3枚目の甲冑姿など。ただし、これらの絵は後に描き変えられている形跡があるらしい)。なお、西野氏は関雪が見たカスティリオーネの絵は「トルコ風呂の中にある香妃の肖像」ではないか、と言っている。だとするとここに紹介したものではないのだが。

 比較してみると、どの絵の香妃も美しいが関雪が描く「強さ」は感じない。日本人である関雪が特別な想いを込めてウイグルの王妃・香妃を描いたのは間違いなさそうである。


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