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絵を描くこと、化学変化、進化

絵を描いていてたまに頂くご意見。

「もっとこういう風に描けばいいんじゃない?』

ご意見ありがとうございます。だ、け、ど。じゃああなたが描いてください。というのが正直な感想です。人の意見に耳を傾けることは重要です。リクエストや期待に答えてゆくのも、必要な時があります。

特に私は自分の感覚を信じ過ぎているところがあるのも自覚しています。外部刺激を受けて起こる化学変化は大切です。自分の知識や想像が及ばなかったところにたどり着くことができます。誰かが使っている面白そうな素材や視点は私に刺激を与えます。

ですが、私の中では意見に添って描くのはなんか違和感を覚えます。「これをモチーフに絵を描いて」だったら面白いんですけど、親和性のないかけ離れたものだとそれすら苦になります。でも相手のセンスに便乗してモチーフを増やしてゆくことは(そもそもセンスのある人は親和性のないものを要求してこないです)自分のネタが増えて嬉しいです。

そこで私の絵の変化について。

私の絵はある期間を過ぎると突然変化し始めます。これを進化ととっていただけるととても嬉しいのですが、じゃあこういうのもできるでしょ、と言われると「そういうことじゃないんだな〜」と思ってしまいます。変化は然るべき時に現れるのですから、そして私は意見をちゃんと頭に保存しているのですから、それを否定してほしくはありません。あくまでも細胞が分裂、増殖するようにグラデーションで変化や進化をしていくのが私にとっては自然な行為なのです。

余計な混乱はどう受け止めればいいのか頭を悩ませてしまいます。

鑑賞者との対話はもちろん重要なことです。私が気づかなかったことを見せてくれますし、それが自分に対する新しい発見にも繋がります。よくあることなのですが、私が何かをモチーフにして描いたものが全くの別物に見えるケース。これこそ私にとって興奮することで、私にはなかった視点をいただいた感覚になります。あとは私が意図しないディテールに気づいていただけた時、それはもう感動の一言につきます。

私は展示の機会があればなるべく在廊したいタイプです。その日に10人来ても、1人だったとしても、ちゃんと絵と対面して会話をしたいと思っています。絵は購入されたらお嫁入りのように私の手から離れていきます。すると今度は鑑賞者と絵の対話になるわけですが、そこに少しでも私との対話の記憶があってくれたら嬉しいなと思います。

その鑑賞者との対話は化学変化であり、のちに進化へと繋がります。

こうして私の絵は変わり続けていくのです。

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