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偶然、たまたま、おっとっと、他人

私の制作スタイルでは、絵の具をある程度ランダムに配置して、その滲みにリアクションをするという事をメインにしているのですが、たまーにその滲みを操りたくなる時があります。

しかしそのキャンバス上で起こっている現象は私の手から離れた1個の世界で、私には介入できない領域があるのです。むしろ私はその「手を挟めない余白のような世界」を楽しんでいます。なのに「ここがもっとこうだったら」とかを思ってしまう時があるのです。

それって人間関係にちょっと似てて、ある程度親密になると相手の世界に介入してしまいたくなったり、あるいは恋人だとしたら「もっとこうしてほしい」とか思っちゃったりするわけです。でもそういう「要求」が生まれたらちょっとくらいは声に出しますけど、でもそれで反応がなかったら「そっか」で終わらせるように勤めています。

病気に関わる事だったら別ですけどね。例えばこの間はまぁちょっとした修羅場になってしまって。後から冷静になった時に「あの時はこうだったんだよ、そしてこういう事で困ってたんだよ」と相手に伝わるまでとことん発信してました。

でも私の場合は、絵も人も自分の思い通りにできる世界ではないから。そこを1回飲み込む事も必要さ、と日々自分に言い聞かせています。

そして物事を斜めから見たっていいじゃんって思います。全てにおいて正直で、素直で、まっすぐになんて到底なれない。特にいろいろ知ってしまった大人は。

大切なのは、どんな角度からでもいいから、本質や真理を観察することだと思います。それなら子供も大人も共有できる。私は特に自分の作品においてそうありたいと常々向き合っています。それが少しでも自然にできた時に納得いく良い作品が生まれます。

でも案外自分では「うーん」ってなった作品が「良いね!」って言われる事も多々あるんですけどね。

それって、もしかして、真理はひとつじゃないの...?

人の数だけ真理があって当たり前かもな〜とここまで書いて思いました。その無数の真理をどれだけ共有できるかがキモなのかも?

わかりみが深いか、はたまた無いのか。これっていろんな場面で直面しませんか。でもあってもなくても興味が湧く事ってあるし...。

結論は急がず、今日は今日やれる事をしていきたいと思いました。(結果:わからない)

おしまい。

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