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凛とした、しなやかな蓮のように

こんにちは。あと1週間で9月が終わってしまうと気づいて謎の感情に襲われています、みうです。
ちなみにアイキャッチ画像は昨年夏に撮った永平寺の蓮です。美しいですよね。

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しゅーっと伸びるこの感じ(茎が葉に透けて合成みたいに見えますが)。

さて、今回は自分の目指す姿について話したいと思います。

"Generally"

まず始めに私の社会的属性を確認してみます。

20歳、女性、某大学2年生。日本、都内在住。

以上。

もう少し個人のレベルに落とし込んでみます。

・基本的に真面目。

・人間づきあいは典型的な「狭く深く」。「深く」の該当者がごくわずかなので(トータル3、4人くらい、基準によれば1、2人かも)、おそらく「狭く浅く」と思われている。

・両親と暮らす。

・洋服やアクセサリーが好き。

・朝は弱いのに1限の日は8時前に大学にいることが多い。

・学力は多分それなりにはあったけれど、最近は知らない。

・第一印象(複数回答可)の70%は「大人しい」、50%は「怖そう」。

・様々な面で多様性を尊重したい。

そして、

1人が好き。

レッテルを貼っているのは誰か

最初に社会的属性について紹介しました。都内在住の20歳女性。いわゆるJD2。

私の通う大学の友人の間で頻繁に嘆かれていることなのですが、当学の学生生活は「知ってる大学生活じゃない」そうです。
課題だとか講義だとか。そういう勉強に手一杯で、平日にディズニー行くとか、毎日のようにインスタグラムにキラキラ写真をアップするとか、そういうことは到底できません。

大学生と聞くともっとゆるいイメージもあったような気がします。
それに、自分は20歳にもなれば楽しい友人関係を築いて、素敵な人と出会って恋愛なんかもしちゃったりして、友達の家でお酒を飲みながら笑いあって夜を明かしたり、新宿でちょっといいブランドの服を買ったりして、なんてこともあるかもしれないと思っていました。

世の中のJD2って、そういうものだと思っていました。

でも今の私、実際どうでしょうか?

そもそもインスタをやらない。Twitterも実質使っていない。いざ人脈ができてみる(特に同学年±1くらいの男性)と煩雑すぎて無視をする(ごめんなさいマジで)。

楽しい友人関係は築けているし、同学年はもちろん他の学年との繋がりもないわけではないけれど、一人暮らしの友達の家に「今日行くわ〜」なんて言葉多分未だに発したことがない(1度だけWi-Fiの不調を見るためにお邪魔したことはある)。先輩と食事に行ったこともない。

若年層が好きそうなタピオカはカロリーとお金ばかり気になって滅多に買わないし、間食もほぼしない。テーマパークは相変わらず苦手だし、特段好きになろうとするための取り組みもしない。
課題やプロジェクトにひたむきすぎて「偉いね」なんて言われてしまう。なぜか(光栄にも?)大学の内部の人に気に入られる。よっていろんな事情やら何やらがそこそこ筒抜けである…。

そんな私を、私は「普通の大学生ではないな」と思うことがあります。
でも、多様性を尊重したい人なので、「これも大学生じゃん?」と思います。「世の中でいうJD2のイメージとは違う、大衆とは違う自分、いいじゃん?」と。

しかしながら、最近気がつきました。

その「世の中でいうJD2のイメージ」は、勝手に自分が作り出したものなのではないか。
ディズニーが大好きなのも、インスタグラマーなのも、タピオカを好んで飲むのも、ブランド物を身につけるのも、全て私がつくり上げた「世の中でいうJD2のイメージ」であり、敢えて「自分とは違う」、対局にあるものとして構築した大衆像なのではないか。

だとしたら、自分は周りと違うなんて思っている私に「俗にいう同世代同性とは違う」というレッテルを貼っているのは、社会や集団ではなく、社会や集団によって形成された自分自身であるということになります。
自分が社会の中で見てきた一部の同世代同性を姿を見て、そこから溢れた自分を、極端な言い方をすれば「異端」と判断し、周りと違うんだなんて言うのは随分と滑稽な話のように聞こえるでしょう。

それでもまあ、誰一人として誰かと全く同じ人間なんていないわけですから、誰でも「異端」になる可能性がある、とも思っています。

迷子の軸

さて、ここからは自分が「なりたい姿」について考えていきます。
以前他の記事でも紹介しましたが、私は「これしたい、あれしたい」より「これするべき、ああしなきゃ」という義務感をベースにして動いている人間なので、正直「こうなりたい!」といった強い願望はありません。

強い願望、自分の夢が過小評価される自分は、したがって軸がブレブレです。
「お前は何がしたいのかわからん」なんてよく言われます。自分でもわかってないもん、なんて言いたくなってしまいます。

特に就活の話になった時「どういう職業に就きたいの?」なんて聞かれると、よくわからなくて、なんとなくそれらしいことを言っておきます。「自分のやりたいこと見つけるって難しいよね〜」なんて言われた日には安心してしまいます。

それに、人間関係が「狭く深く」なので、浅い部分の人にはただの「いい人」に見えるように振る舞うのですが、深い部分の人にはかなり自身をさらけ出します。
結果、その話す人ごとに態度が少しずつ変わってくるので、3人以上で話すと謎のキャラになって話し始めたり、逆に黙り込んでしまったりします。

これは軸がブレていると言われても仕方ないことかもしれません。

自分のなりたい姿

そんな私でも、具体的なものではないのですが、最近少しだけ、自分のなりたい姿を見つけることができました。

自分は、ひとり雨の夜に透明のビニール傘をさして、
スクランブル交差点の真ん中に立っているだけで
強く美しく映える人になりたい。

きっと謎ですよね。でも、これなんです。自分のなりたい姿。

雨の夜の都会と言うのはなんとも風情があります。雨の夜、雨粒にぼやける明かりが大好きです。雨とぼやけた光が好きすぎて、Chromeのホーム画面にも設定しています。ほらね。

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そんな大好きなものをビニール越しに見て、その景色の一部に溶け込む。
そして、人混みと喧騒という、ある意味「無機質」なものに囲まれながら、自我を持ってひとり立ち尽くしている…。


いい。(語彙力)


これが似合うような人間になりたいのです。
無機質と敵の中で強く生きる何者かになりたいと強く思うのです。

目は虚空を見つめながらも強い意志をもつ瞳を抱いていて。それでいて悲しさをも物語っていて。そういう者に私はなりたい(おっと、宮沢賢治が乗り移りましたね)。

逆境に立ち向かう力

それを実現するには一体どうしたらいいのでしょうか。

正解なんて人それぞれだし、「これは違う」っていうものはないと思います。どんなアプローチでもいい、どんな遠回りでもいい、そう思います。

個人的にはたくさんの何かを経ることが大切だと思っています。その「何か」は自分が選んで経験するものでもいいし、強制的、あるいはなりゆきで経験するのもいいし。その中で世の中や自身の光も闇も見ていけばいいのです。


そして、人は何かを乗り越えることで確実に強くなれます。

大きなタスクを乗り越える、大きな目標を達成することで、いやそのために努力する過程のうちに、人は強くなっていきます。
そのためには逆境に負けない力が不可欠です。
そして私は、万人に共通する「逆境」はその人自身だと思います。


泥中の蓮」(でいちゅうのはちす)という言葉をご存知でしょうか。コトバンクより以下を引用します。

《「維摩経」から》汚れた環境の中でもそれに影響されずに、清らかさを保っていることのたとえ。

「朱に交われば赤くなる」の対義語、という解釈が分かりやすいかと思います。
私は最近この言葉に出会って以来、この考え方を強く意識するようになりました。

泥は自分自身であったり、周りの環境であったり色々です。言い換えてみれば先述の「逆境」です。
その中でも腐らずにいることは決して簡単なことではありませんが、耐え忍び真っ直ぐに生きることでまた一つ強くなれるのだと思います。

大衆という泥、私という泥の中でも
凛として構える美しい蓮


これが今の自分の「なりたい姿」です。
まして「1人が好き」というファクターは、きっと泥に溺れることなくやり通すことを助長するものになるでしょう。
きっと私のいう「1人が好き」は、そういうことなのかもしれない、そう思います。


今回も最後までお読みいただきありがとうございました。