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書くことの愚かさを引き受け、愚かさを通じて私たちが接続されるために

書くこととは原理的に、ひとつの「愚かさ」を引き受けるという選択だと思う。
そしてそれは悪いことではない。「愚かさを引き受ける」とはぼくにとって「生きる」ことと同義なので、けっしてシニカルに言っているのではない。逆に言えば、愚かさの反対の「賢明さ」とは、それを究極まで突き詰めれば、何も言わないことであり書かないことである。(中略)
多くの人は愚かさを避け、自分が愚かに見えることを避けて、ひたすら賢明さだけを追求しているように思える。賢明さを突き詰めた先には死しかないのに、あるいは賢明さを最高の価値とした瞬間に潜在的にはすでに死んでいるのに、そのことに気づいていないように見える(これもまた愚かさだが、みずからを賢明だと信じている点で自己欺瞞的な愚かさである)。
『愚かさについて』より引用)

このnoteは、存在することと不可分である「愚かさ」に私たちはいかにして対峙すべきか、の観念的な考察です。

観念的になってしまうのは、私が観念的な記述を好むからであって、あまり表現の仕方にはとらわれないでほしいです。そこは私にとっては本質ではありません。観念は行動の裏付けに過ぎず、具体的な行動を生成して初めて意味を持つというのも確かですが、今回は観念的なことを書くための時間を少しだけ取りたかったということです。

この文章は、上の引用で言及された「愚かさ」への葛藤があるひとを意識して書きました。「"正しさ"について語ること」は、無知や無自覚や欺瞞によってしかなし得ないのではないか、という絶望をもし感じているなら、どのようにそれを乗り越えることができるか、一緒に考えてみたいと思います。

「愚かさ」とは何なのか

最初に、「愚かさ」とは何かについてはっきりさせておきたいと思います。これは、知識不足や勉強不足とは全く別の問題です。「お前は勉強不足だ」と指摘されること自体は、本質的には全く怖くありません。それは勉強すれば「万事解決」であり、突破口が見えているからです。しかし、いくら知識を身につけようとも、根本的な何かを「間違えて」しまったような人をたくさん見たことがあると思いますが、ここでいう「愚かさ」とはそれに近いことです。

「愚かさ」とは、人間が例外なく抱える、原理的な認識論的限界のことを指しています。大雑把に表現すれば、一個人がどんなに客観的な主張を試みようとも、主観性が原理的に混在してしまうという問題です。

「書くこと」—— 広義には、語る・主張する・表現する・意思表明するなど、思想のあらゆる表現形態を含みますが —— に対象を絞って、もう少し具体的な話をします。例えば私がこのnoteでどんなに客観的な主張を試みようとも、この文章を書くことに対して私を突き動かしている「感情」が、節々に露呈することは避けられません。

これについて、ひとつ面白い例を指摘したいと思います。一見すると極めて実証的かつ客観的な事実を連ねて主張を構成しているひとを裏で駆動しているのが、実は絶望や孤独であるという例が見受けられます。いくら主張が客観的であろうと、そのようなひとの分析は、現状に対する絶望に「閉じて」いる(感情的に分析を語る)。一方で、例えばエッセイのような体裁をとる文章は、個人的な体験という「主観」を記述しますが、筆者はごくごく淡々と、リアリスティックにそれを描写している、ということがありえます(分析的に感情を語る)。主観性と客観性は、論説とかフィクションとかエッセイといった、表現の体裁とは全く無関係であるという例です。

いくら「ファクト」を尽くして語ろうとしても、どの「ファクト」に注目するかによって、そのひとの、世界に対する根源的な態度が大なり小なり露呈するものです。混沌とした世界をいかにして構造化し、無限に存在する事実の中から、何を事実として抽出・引用して「ファクト」として語るのか、という過程の中に、主観性はどうしても混在してしまう。例えばニュースが、「今年初の」「30年ぶりの」といった恣意的な指標により、事実の特定の側面を強調する傾向があることに気づくのは難しいことではありません。

まとめると、語ることそのものにどうしても事実の「選別」(=主観性)が内在してしまうという構造があり、これが個人の認識限界を露呈するという愚かさを原理的に引き受けることになる理由だと私は考えています。

「正しさの壁」を永遠に越えられない絶望

しかし、私たちは生きている限り、完全な沈黙を守ることはできません。あらゆる行動は究極的には表現形態だからです。愚かさと対峙することからは逃げられない。

認識論的限界という「正しさの壁」を原理的に乗り越えられないという気持ち悪さを抱えながら、そこにはもう一つの絶望があります。それは、私たち一人ひとりがいくら誠意を尽くそうとしても、同じように壁を乗り越えられず、壁の内側にいるはずのひとから、絶えず「お前は間違っている」という批判を突きつけられ続けることです。そんな奇妙な構造は、偶然にも人間が、この世界に孤独に存在してしまうことの悲哀を表しているようにすら感じます。

「全員が幸せになれるものなら、なってほしい」と思っているひとが大半なのではないでしょうか。それができないのは、助け船の乗員数が限られているからであり、私たちは船に「誰を乗せるか」で喧嘩をしてしまうからです。さきほど、語ることは「事実の選別」だと言及しましたが、事実の選別は結果として「人の選別」に繋がらざるを得ない。「人の選別」がどうやっても成しえないのは、ひとの最も基本的な存在論的価値において、誰ひとりとして差別化されることがないからです。私たち全員の幸福の追求が完全に調和することはなく、絶えずコンフリクトを生み続けながら合意形成をしていかなくてはいけないという、「公共の福祉」の中心的な問題です。

「壁の内側」にいることを通じて、他者と接続される

しかし、ここで私の文章が絶望に「閉じて」いるのでは、先程の「感情的に分析を語っている」状態に他ならず、埒が明かないというものです。もう一つの感情である「希望」について触れたいと思います。

私が結局主張したいのは、民主主義の基本的なプロセスに関わることです。それは、「あなたの意見は大嫌いだが、あなたが愚かさを引き受け、意見を主張したという点において、あなたをリスペクトする」という基本的な姿勢の重要性です。私たちは、例外なく「正しさの壁」を越えられないという点で、みな壁の内側にいます。その事実を通じて、私たちはどんな反対意見の人間とも、愚かさを積極的に引き受けた同胞として、ある種の暖かみをもって接続されることができるのではないか。

「愚かさを引き受けたという点で、あなたはその点において倫理的であり、善いことをしたのだ」という考え方を、私は一つの見方として主張したいと思います。

「その点において」という限定句は重要です。あらゆる価値判断は多次元であり、何が絶対善であり何が絶対悪であるといった二元論的な価値判断を留保することで、主観性を可能な限り排除することが目的です。ですから、「愚かさを引き受けた」という事実は、主張の妥当性の評価には何ら影響を与えるものではありません。

多様性を増幅していく社会の作用に身を委ねる

いくら客観を尽くして語ろうとしても、事実の選別に主観性が伴ってしまうならば、ひとりだけで、完全な「正しさ」への到達を目指すのは無謀な試みといえます。あなたの表現形態が単体で「正しく」なることはできない。それは一つの主張で全ての事実をカバーすることが不可能だからです。

社会は、多様な思想を持った個々人が複雑に相互作用し行動を絶えず起こし続けるプロセスによって動いています。全員が絶対的に正しい一つの思想に基づいて社会を進めていかねばいけないのなら、社会は身動きが取れません。生物種の生存とは、多様性を増幅して環境の不確実性に適応していく営みです。ゆえに沈黙を貫かねばならないという全体主義的な圧力を作っていくことは、不確実性への適応という側面では悪手です。

私たち一人ひとりの表現は、そんな多様性の中のほんの一部分としての役割を引き受けることにあるのではないでしょうか。最終的には社会の作用に身を委ねるしかないというのは、非力さの証拠でもありますが、同時に私たち一人ひとりがどんなことを表現しようとも、社会全体としては、簡単には大きく「間違え」ないということです。それは私たちがどんなに他者から「間違っている」を突きつけられても、愚かさを引き受けることそれ自体に大きな間違いはないだろう、と考えるための安心材料ではないでしょうか。

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