見出し画像

幸せの価値を他人のものさしで測るな

他人が押し付けてくる「幸せ」や「正義」を鵜呑みにして生きていかないと、普通という輪の中に入れさせてもらえない日本。

そんな世の中に、違和感を持っている人も少なくないはず。
けれど声を大にして言えないのはなぜだろうか。

自分の幸せは自分で決めて良いはずなのに、他人や世間というフィルターを通してしまう。
そんなフィルターの呪いにかかってしまった私たちに必要なものは何なのかを考えたい。

発言権などない子ども時代

私が学生のころは、私という人間に発言権などなかった。

先生や家族からの言うことが全て正しいのであって、逆らえば怒鳴りつけられ泣くまで責め立てられる。

「これっておかしいですよね?」
「間違っているのはあなたの方ですよね?」
「私はこう思います」

そんなことを言いだす子どもだったから、可愛げもくそもなかったのだろう。
でも私はどうしても、自分がちっとも悪いと思わないことに対して謝罪し反省したふりをすることができない子どもだった。

泣くまで怒鳴りつけるその行為に、何の意味があるのだろうか。
それは大人側の自己満足でしかないはずだ。

そんな大人の快楽に付き合えるほど私も馬鹿ではなかったし、良い子でもなかった。

この幼少期〜学生時代の「価値観の押し付け」は、大人になっても解かれることのない呪いとなって自身に覆い被さってはいないだろうか。

勝手に敷かれたレールの上で

大学を出て有名企業に就職し、28歳で結婚。子どもは2人で男と女。出産後は専業主婦になり、家族のために働きましょう。

これって誰が決めたルールですか?勝手にレールを敷くだけ敷いて、消えないでもらって良いですか?

誰にもぶつけられない怒りだけが残り、日々を消化していく。
そんなレールを走るだけで必死なのに、幸せなんてものが果たして考えられるのだろうか。

私は早々にこの馬鹿げたレースから退散した人間だった。
レールから外れた人間には何を言っても良いかのように、沢山のひどい言葉たちを吐き捨てられた。

あれだけ「いじめはダメです」と正義を振りかざしていた大人たちは、輪から外れた途端に何を言っても何をやっても許されるみたいだった。

正しいとは何か。自分が正解だと思って見ている景色は、他人から見れば間違っていて……。
だったら、正しいも間違いもないのではないだろうか。

自分が見ている景色を綺麗だと言ってくれる人と「あーでもない」「こーでもない」と笑い合えば良いのではないだろうか。

幸せは自分でつくりだすもの

10人いれば10通りの幸せの形がある。何が正解かは、自分自身が決めるもの。
胸を張って「私は今、幸せです」と言えるのなら、それはあなただけの唯一の正解である!

他人に何を言われようが、批判されようが罵倒されようが、それはただの戯言であって。

「心配してくださってありがとう、外野の人」

そう言ってスルーする力は、現代に生きる私たちにとって必要なスキルなのではないかと私は思います。

迷うことだってある。間違うことだってある。それが人間であり、人生である。
でも、自分が決めて進んできた人生を正解にするのも失敗にするのも自分だと思うから。

選んだ道を正解にできるように、今を生きていくことが「幸せ」への近道なのかもしれない。

この記事が参加している募集

多様性を考える

私は私のここがすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?