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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」亀姫と奥平信昌の子供たち

大河ドラマ「どうする家康」は、2週にかけて長篠・設楽原合戦が描かれ、武田勝頼との戦いという部分に加え、織田信長と徳川家康の関係にも影響をもたらしたという視点で描かれていました。

今回は、戦いのきっかけとなった長篠城主・奥平氏について書きます。

合戦のあと、長篠城主・奥平信昌のもとに徳川家康の長女である亀姫が嫁ぎました。今川の血筋を重んじていた兄の信康は、それほど家格の高くない奥平家との婚姻に反対したとも言われています。

信昌と亀姫の間には5人の子がいました。長男の家昌は家康に重用されて独立、二男の家治は家康の養子となったものの早世、三男の忠政が実質的な奥平家の後継者となりました。長女は大久保忠隣の長男・忠常に嫁いでいます。

そして四男の忠明。早世した家治に代わり、家康の養子となって松平の姓を与えられます。関ケ原の合戦後に三河作手藩主となってからは、伊勢亀山藩主、摂津大坂藩主、奈良郡山藩主と移封のたびに加増されていったのです。

摂津大坂藩主となったのは大坂夏の陣の後で、いわば戦後統治と処理を任されたことになります。忠明は、戦いで荒廃した大坂市街地の復興に尽力し、堀川の開削などを通して現在の大都市・大阪の礎を築きました。

家康、秀忠から厚い信頼を受けていたようで、秀忠からは三代家光の後見人を遺言されるほどでした。そうした実績もあって、最終的には姫路藩18万石を賜ります。これは兄の奥平家昌(宇都宮藩)、奥平忠政(美濃加納藩)を上回る高禄だったのです。

ちなみに、家昌の系譜は中津藩、忠明の系譜は武蔵忍藩として明治維新を迎えることになります。忠政の系譜は子の代までで断絶しました。長女が嫁いだ大久保家は小田原藩として命脈を保ち続けたのです。

こうして見ていくと、亀姫は家康の血脈をしっかりと残していったことが分かります。徳川家にとって、奥平家と縁が結べたのは非常に大きかったと言えるでしょう。


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