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書きたい理由に しがみつく

ある日のランチタイム、ふと、いつものエリアの外で食べてみたくなった。会社から五分、十分、十五分とふわふわ歩いているうちに何が食べたいのかわからなくなって、ふと目に飛び込んできた赤いドアのお店に入った。

奥に進むと目の前に大きなスクリーンが現れる。示された席についたとたん、映画の主人公が言った。

「書きたい理由にしがみつけ」。すごい言葉だと思った。

ふいに何かに出会うことがある。映画のせりふ、隣り合わせになった人々の会話、なにげなく開いた本や雑誌の一行がとつぜん心に深くもぐりこみ、自分を操作する小さな核になる。ただの偶然だと片付ければそれは偶然でしかないけれど、そのものの時間と私が歩んできた時間の交差は、見方を変えれば壮大なことなのだと思う。私たちはみんな、誰かを旅立たせる自由の港なのだ。

ある日、コーヒーショップで二人の女の子と隣り合わせになった。漫画家志望の女の子たちは自分たちの描いた漫画の感想を述べ合っていた。思わず目線がその原稿の方を向いてしまう。漫画の原稿は鳥肌がたつくらい緻密に描き込まれていて、まるでその子たち自身がそこを這い回って仕上げたかのような迫力があった。

「ちょっと見せてもらえないでしょうか?」どこかにその糸口がないかを探りながらドキドキしていたけれど、最後まで言えなかった。周囲を気にして声をひそめたり原稿を隠し気味に交換したりする二人は、ここではその熱を内側に守りたいように私には見えたからだ。「今回は賞をとれなかったけど、描いているときがいちばん楽しい。」「うん、絶対デビューしようね。」手垢にまみれたケースに原稿をしまい、彼女たちはそんなことを言い合って別れた。

生きている理由なんてよくわからないけれど、いま目の前にあることを全力でやるということに尽きるのではないかと思う。それは過去の失敗や経験や勲章を生かしておくことのできる唯一の方法でもあるし、これからの自分を信じるということでもある。

ひそやかに痕跡を残し、花を贈られ、誰かが去ったあとも、自由の港は続いていく。





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このエッセイは、リトルプレス『アイスクリームならラムレーズン』(しおまち書房)に収録されています。noteでの購入方法はこちらです。


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