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子供は判ってくれな(くてもい)い

 奇書とひと口にいっても『ドグラ・マグラ』や『家畜人ヤプー』のようなメジャーどころから、目録マニア垂涎の希少本など様々で、毎週末に全国各地で行われる古本市には朝も早くから書痴が詰めかける。私にとっての奇書はそんな彼らからすれば間違いなく興味の対象外だろうし、悲しいかな、出版社が想定した読者層にとっても同じだろう。そのタイトルは『感動する仕事!泣ける仕事!』といい、学研から出た児童向けの学習参考書である。

 映画ならびに小説やマンガなど、フィクションが子供に与える影響は大きく、たとえば『キャプテン翼』に至っては世界レヴェルで、ジダンやイニエスタの才能はその賜物である。何より、両親の背中こそを教科書として育つ子供も多いことだろう。いずれにせよ、人は誰しも自分の将来を決定するにあたり、「泣き」の要素を第一条件に挙げたりはしない。ニーズが皆無の「奇書」たる所以であり(そもそも、道徳的にもマズい)、刊行は二〇一〇年だ。ゼロ年代において、『世界の中心で愛を叫ぶ』を嚆矢とする「泣ける映画」は業界を席巻し、シネコンにおける洋邦のシェアは完全に逆転した。『感動する仕事~』はまさしくその余波である(そういえば西田敏行と上田晋也が司会を務める「誰も知らない泣ける歌」という番組もあった)。

 もっとも、日本映画界は「泣き」のワンパンチのみでハリウッドをノックアウトしたのではない。セカチューから遡ること六年前。『リング』が蒔いたジャパニーズ・ホラーの芽が、全国の劇場のみならずレンタルショップにおいて根付き、そもそも映画にすら関心の薄い観客層を地道に取り込んでいたからだ。このブームは『女優霊』や黒沢清の再評価の呼び水となり、やがては清水崇が『呪怨』でブレイクするなど、活況はVシネにまで及び、稲川淳二の顔を大写しにしたパッケージは当時のTSUTAYAではおなじみのものであった。面出しされたジャケットのほとんどは黒を基調に、赤もしくは青といった色使いで構成されており(『呪怨』の影響が大)、キラキラ映画を主要コンテンツとする現在の日本映画の棚とは対照的だが、実のところ、「恐怖」や「感動」といった直截な映画表現の延長線上にあり、かつては顎クイや壁ドンに代表された記号としての物語上の役割は貞子のそれと大差ない。日活ロマンポルノにおける裸を並べてみれば、よりわかりやすいだろうか。いつの時代も流れさえ出来てしまえばあとは総力戦で、劇画ブームの頃にはあの吉村公三郎が『混血児リカ ハマぐれ子守唄』を撮ったのだし、通例に従うようにして、崔洋一は『クイール』を、山戸結希は『溺れるナイフ』を手がけた。ブームのさなかにあっては監督のキャリアは不問とされ、山戸や廣木隆一のように、その資質がうまく波に乗りさえすれば仕事は引きも切らない。いつの間にか佐藤純彌化した瀬々敬久の屈託は知る由もないが、『感染列島』の公開時に「爆笑問題カーボーイ」にゲスト出演した際の若干(というか、かなり)チャラいトークを思い出すにつけ、案外大衆路線こそが水に合っているのかもしれない。まあ、こうした邪推も何のそのだろう、ハイ・アヴェレージのパワー・ヒッターである彼の活躍ぶりは日本映画の良心である。『雷魚』より『64』のが断然好きだ。結局は黒田硫黄の言うとおり、〈映画って、意図をこえてできちゃったもの〉(『映画に毛が三本』より)でしかないのかもしれず、であれば尚更、美しい手綱さばきには拍手を送りたい。キラキラ映画というジャンルにおいて、そのエースと目され、ついには経済小説の雄である池井戸潤の原作を映画化した三木孝浩の舵取りはクレバーで、今後は演出のみならず、キャリアの変遷とも重なるはずの題材選びにも注目が集まることになるだろう。『青空エール』でタッグを組んだ竹内涼真にスーツを着せた『アキラとあきら』は、三木の第二章の幕開けを飾るオールスター映画で、ターゲットは『半沢直樹』の視聴者層にまで拡大し、月川翔よりも一歩抜きん出た感を与える(今にして思えば、広瀬すず主演の『先生!』は、篠田昇の意匠を継いだ光の映画でありながら、固い構図の連続で見せ、岩井俊二に代表される九〇年代風のルーズなフィーリングへの訣別ともとれる)。

 もっとも、この映画が半沢と異なる点は主人公の善性にあり、『君と世界が終わる日に』や『六本木クラス』で堂々たるヒーローを演じた竹内の芝居の説得力が、観客の興味を最後まで引っ張る。もし彼が江口洋介演じる上司のようなビジネスライクな性格であったとしたら、そもそもが成り立たない物語であり、融資を断られた宇野祥平の町工場はただつぶれるしかなく、難病と戦う愛娘の治療費はその後始末に消えていただろう。行内での自らの立場を顧みず、せめて顧客の家族の命だけはと、バンカーならではの抜け道をサジェストする竹内のやさしさは当然彼の首を締めることになる。こうした竹内、宇野のキャラクター設定はルーチンの極みだが、ベタをも厭わないその気概が、顔の見えない数千の社員の生活の重みをはっきりと見る側に伝える。その点において半沢はエリート主義的であったし、次から次へと難敵があらわれるストーリー構成は、いわゆる怪物対怪物の物語で、銀行の顧客とは関係のない主権争いであった。その原動力となる男のプライドは組織自体を焼き尽くさんばかりで、そうしたエッセンスはユースケ・サンタマリアとアンジャッシュ児嶋が演じる兄弟に受け継がれており、池井戸ファンの気を逸らさない。このキャスティングは日本映画史上にも稀な慧眼で、すぐれた企業人であった亡き兄へのブラザー・コンプレックスに狂う男のせこさとうしろめたさを、二人共に見事に表現している。また、彼らの甥にあたる高橋海人も大会社役員の重圧に苦しむと同時に、聡明なバンカーである兄の横浜流星への嫉妬で心を引き裂かれ、その関係性は三人の叔父のそれと相似形を成している。かのようにして、本作ならびに半沢のキャラクター設定が示すとおり、すぐれた知性はそれだけで周囲の劣等感を刺激し、落ち着きを奪うものだ。たとえば、ひろゆきをああもリベラリストが嫌う理由ははっきりしていて、体制擁護派だなんだというのは建前でしかなく、高い情報識別能力に基づいた彼の見識に恐れを抱いているからだ。加えて、その見立てはしばしばドラスティックな価値観の転換を迫り、主にレフト・サイドの神経を逆撫でする。それゆえか、つい先頃、全国の児童養護施設にパソコンを寄付するプロジェクトを発表したひろゆきのツイートは、国民の知的インフラの充実を願うはずのリベラル諸氏が真っ先にリツイートしなければならない類いのものであったのだが、一様にスルーを決め込まれてしまった。フレデリック・ワイズマンが『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館』で映し出したアメリカの有りように彼ら彼女らは何を見ていたのだろう?「民主主義」というスローガンを積極的に消費するばかりで、その持続可能性を担保するためのシステムをまるで考慮していなかったのではないか(パンフレットに掲載された金井美恵子の駄文によくあらわれている)。貧しい市民にパソコンとネット回線とを無償で貸与するニューヨーク公共図書館の司書たちとひろゆきの振る舞いは、はっきり同質である。「図書館とは普通の人々、庶民のためのものでなければならない」というアンドリュー・カーネギーの理念はつまり、“The Choice is Yours”、「君たちはどう生きるか」。ジョン・F・ケネディのあの有名な演説は、民主主義の最小単位である国民の、平等なるリテラシーの向上を信じてこそのものだ。ケネディのリバタリアニズムはやがて、ひろゆきのベーシック・インカム必要論でもって上書きされ、実用化の際には、社会的なセーフティ・ネットをより広くすることだろう。しかし、残念なことに、ドロップアウトしてからの人生は、教育機関にとってはあくまで想定の範囲外である。

 『アキラとあきら』が描くのは、後退戦の被害を最小限に留めるための粘り方と、手持ちの武器の活用法で、その参謀が讃えられることは稀である。「晴れの日には傘を貸し、雨の日にはそれを奪い取る」という銀行の習性に矛盾を覚えながらも、自らの良心と照らし合わせて、困っている誰かが生き延びる術を必死で探そうとする竹内涼真の姿は労働者の鑑だろう。宇野祥平の娘の手術が無事成功したと知らせるアメリカからの手紙はひとつの証しである。狭いアパートのワンルームで竹内が流す涙のほんとうの重みを子供がわかるわけがないし、そう簡単にわからなくてもいいのだ。

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