見出し画像

龍神考(31) ー天瓊矛と独鈷とシキミー

中世日本の国土観


「日本」=「独鈷」(インドの武器に由来する仏教の法具=金剛杵の一種)だと観想する国土観が中世日本にありました。

 黒田日出男著『龍の棲む日本』(岩波新書、2003年)に紹介されているこの国土観から、前回は以下の点を抽出しました。

日本は独鈷の形

②「五畿七道」の「五畿」は「玉の国」「七道」は「天照大神の国」
*「七道」は「五畿」(今の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部)を除く本州+四国+九州

③伊勢の神宮の内宮(天照大神)の社形は独鈷外宮(豊受大神)の社形は八葉蓮華

④伊勢の神宮の社殿の床下に立つ心の御柱も独鈷

⑤イザナギ・イザナミの二神の国生みに用いられた天瓊矛(あめのぬほこ)も独鈷

⑥天瓊矛が投げ下ろされた日本の海底にある大日如来の印文=三輪の金光も独鈷

日本=独鈷杵(とっこしょ)、震旦(中国)=三鈷杵、天竺(インド)=五鈷杵

 太陽の女神である天照大御神の象徴は円形の鏡というイメージが強いですが、そのお宮は細長い独鈷に見立てられていたのです。



 天照大御神と弟の須佐之男命との「誓約(うけひ)」でも、天照大御神が須佐之男命の象徴=剣を噛み砕いて噴き出した霧から宗像の三女神が誕生したのに対して、須佐之男命は天照大御神の象徴として鏡ではなく勾玉を受け取って噛み砕き、吹き出した霧から天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと:天孫の父)を始めとする五柱の男神がご誕生になりました。

 勾玉は丸い玉から尾のようなものが伸びているものです。

 これを平面的に捉えると、「巴(ともえ)」になります。

「巴」が二つ、三つ円形に連なると家紋の「二つ巴」、「三つ巴」になります。



「巴」を抽象的に捉えると、円形・球形と先細る尾の部分から構成されます。

 もっと単純化すると「円・球+細長いもの」になりますが、この組み合わせが重視されたのは、中世日本の国土観の要点を列記した上掲のリストの②「五畿」=「玉の国」+「七道」=「天照大神の国」、③伊勢の神宮の内宮=「独鈷」+外宮=「八葉蓮華」とするイメージにも窺えます。



 そして、地上からは円形に見える太陽の女神、天照大御神は、細長い「七道」や「独鈷」に比定されているのが興味深いです。

 日本列島や心の御柱、天瓊矛が「独鈷」であることはまだ理解し易いですが……

「円・球+細長いもの」の組み合わせへの強い意識は、前回「龍神考(30)」で言及しました博多織の献上柄と、唐から帰朝後の最澄(伝教大師)が最初に開かれたとも云う福岡県新宮町の天台宗立華山明鏡院独鈷寺の寺号にも認められます。

・博多織の「献上柄」のモチーフ→「華皿」(円)+「独鈷」(棒)

・天台宗立華山明鏡院独鈷寺の寺号→「明鏡」(円)+「独鈷」(棒)

 これらが、中世日本の国土観を反映したものであることは明らかでしょう。


独鈷寺開創伝説の背景


 今回は独鈷寺と独鈷寺が開かれた立花山に関係する信仰が、上記の⑤と⑥も意識したものであることを見ていきます。


 上掲の天台宗九州西教区のHPに載っている独鈷寺の御縁起から、本稿に必要なポイントだけ列記してみましょう:

・唐から帰朝後の最澄(伝教大師)が花鶴(かづる)が浜(現在の古賀市)に上陸

・天台宗を広めるに相応しい場所を選定するために壇鏡と独鈷を投擲

・地元猟師の案内で二神山(=立花山)の大石の上に壇鏡と独鈷を発見

最澄が薬師如来像を自作して草堂(薬師堂)に安置したのが現在の独鈷寺の起源


最澄(伝教大師)が投げた壇鏡と独鈷が発見された大石(=座禅石)と独鈷寺の本堂(2024年4月1日)


最澄が自ら彫った薬師如来像が安置された場所に後世建てられた薬師堂(2024年2月11日)


現在の独鈷寺境内の入口に立つシキミ(白い石柱の隣)と奥に見える本堂(2024年4月1日)


 また独鈷寺のある立花山の山名は、最澄が寺堂建築中に立てかけていたシキミの杖から根が生えて花が咲いた奇瑞に由来し、それ以前は伊邪那岐命と伊邪那美命が鎮まる「二神山(ふたがみやま)」と呼ばれていました。

 独鈷寺の山号「立華山」もシキミの杖の開花に由来しています。


 伊邪那岐命と伊邪那美命は前回も指摘したように兄妹の関係ながら夫婦となり、日本の国土と神々をお生みなります。

 その最初は、伊邪那岐命と伊邪那美命が、当時はまだ沼のように「ただよへる國を修理(つく)り固め」るべく「天浮橋(あまのうきはし)」に立ち、「天沼矛(あまのぬほこ):天瓊矛とも)」を下ろしてかき回し、引き上げた時に矛先から滴り落ちた「鹽=塩」が積もって「淤能碁呂嶋(おのごろしま)」ができ、さらにこの島に降臨されてから国生みが始まります。

 つまり伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が鎮まる「二神山」と信仰されていた時代から、この山には天瓊矛の存在が感じられていたことが考えられます。


伊邪那岐・伊邪那美の二神が鎮まる「二神山」と呼ばれた「二峰」に見える立花山(2023年12月9日)


 それが中世になると、前述のとおり、上記の国生みの始まりに用いられた天沼矛(天瓊矛)も「独鈷」だと見做されるようになりました。

 ここに、最澄が今の古賀市の花鶴が浜から投擲した独鈷が5kmほども飛行して立花山に落下した「非現実的な伝説」が生まれた信仰思想上の背景が見えてきます。

 奈良の春日の地主神である猿田彦神を雷神として信仰する風土に、同じく雷神の武甕槌命への信仰が重なったように、「承前の原則」を意識して、天瓊矛=独鈷が存在する二神山=立花山に独鈷寺開創の伝説が生まれた可能性に気付かされます。

 最澄の独鈷が、伊邪那岐命と伊邪那美命の天瓊矛と信仰思想上で繋がることで、二神山に天台宗の教えを伝える場を設けることが霊的に可能になるからです。


 しかし、この信仰思想上の繋がりは抽象的、概念的なものではなく、自然崇拝の日本では具体的で現実的な自然の景観や現象を通じて繋がるものです。

 そのことは、福岡県福津市の津屋崎漁港から海を隔てた古賀市の花鶴が浜を経たその向こうに聳える立花山(=二神山)が、中央部分を片手で握った独鈷を想わせる山容をしている点に窺えます。

福津市津屋崎漁港から古賀市花鶴が浜を経て望む立花山は、中央を手で握った独鈷に見える(2024年1月)



 こうして最澄の独鈷は伊邪那岐命と伊邪那美命の天瓊矛と同一化していくことになります。

 そして独鈷と天瓊矛の同一化の霊威は、前述の最澄のシキミの杖から花が咲く、これまた「非現実的」に思われる伝説の誕生につながります。

 それがさらに「二神山」から「立花山」への改称のきっかけとなりました。

独鈷寺境内の入口に立つシキミの花(2024年4月1日)


天瓊矛→壇鏡+独鈷→シキミ


 しかしここでまた別の注目すべき点もあります。

「天瓊矛」には前記のとおり「天沼矛」の表記もあります(古事記)。

 古事記の「天沼矛」は、天神(あまつかみ)が伊邪那岐命と伊邪那美命に対して、「ただよへる國を修理(つく)り固め成せ」と命じられた時に下賜されたものです。
「ただよへる國」の状態を暗示するのが「天沼矛」の「沼」だと思われます。

 他方で日本書紀は「天瓊矛」や「天瓊戈」としたのは、「瓊」は「矛」に付いている「玉」を暗示するためではないかと思います。

「瓊」=「玉」は単に矛に貴重さや神秘性を加えるためではなく、今までみてきたように、細長い矛に円形(球形)の「瓊(玉)」を付加する信仰思想上の必要性によるものと思われます。

「円や球+細長いもの」のセットになる必要性です。

 そこで日本書紀では、歴史的により古い古事記の「天沼矛」=「あめのぬほこ」の言霊を残し、「瓊矛」の字を当てながら、「承前の原則」に従って、「にほこ」ではなく「ぬほこ」と読み続けたのではないでしょうか?

 以上から、最澄は「瓊(円・球形)+矛(細長い形)」と天台の教えが霊的に繋がるように、独鈷単独ではなく、「壇鏡(円形)+独鈷(細長い形)」を投擲した「伝説」が生まれた可能性が考えられます。

 こうしてみると、「非現実的な伝説」の背景に、従前の伊邪那岐命と伊邪那美命の国生み神話への実に細かい意識と配慮が窺えないでしょうか?


 さらに「天瓊矛」→「壇鏡と独鈷」への信仰思想の変容は、シキミの杖から花が咲いた「奇跡」に昇華されます。

 なぜなら「シキミの杖+花」の「花」も「円形」を具象化したものだからです。

 シキミの花を近くで観察すると、たくさんの薄い黄色の細長い花弁が、中心部から太陽のコロナのように放射状に伸び、全体的に「星形」にも「円形」にも見做すことができます。


薄い黄色の細長い花弁のシキミは全体的に「星形」や「円形」にも見える(2024年4月1日)


 このような花が最澄の杖から生えてきたことが「二神山」から「立花山」に改称されたきっかけですが、「立花」には「橘」の含意もあります。

 それは前述のシキミもタチバナも花弁が細長く、全体的に「星形」にも見えることと関係がありそうです。

 さらにタチバナは、お菓子の神とされる田島守命(たじまもりのみこと)が常世国(とこよのくに)から日本に伝えた「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ:非時香木実とも)」という不老不死の霊薬であり、「田島花」が「タチバナ」の由来。

 いつのことか忘れましたが、福岡県宗像市田島に御鎮座の宗像大社の境内を散策中に柑橘系の芳香を感じて、その香りの源を探してみると、花も実も付いていないヤマトタチバナの献木を見つけた覚えがあります。

 タチバナは海の彼方の不老不死の常世国から伝来した、花や果実の時期に限らず常に香りを放つ不老不死の霊薬で、それが「非時香菓」や「非時香木実」の名称と永遠性の象徴となった由来でもある点に注目すると、次のように整理できます:

海外伝来不老不死霊薬「橘」と同じ言霊の「立花山」

海外伝来薬師如来を本尊とする天台宗最初の寺院が開かれた地が「立花山」

タチバナの実と真っ白で細長い花弁の花(2020年5月11日)


 すなわち、花弁が似ているシキミの花を「タチバナ」と言い換えることにより、最澄が海の彼方の国から天台宗の教えとともに持ち帰ってきたシキミの杖から花が咲いた奇跡は、伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みに用いられた天瓊矛の霊威を継承できたことの神示であり、天台の教えが「壇鏡+独鈷」=天瓊矛を介して神代からの永遠の霊威に与り、不老不死のように永遠に新鮮で香り高く日本に長く伝わっていくようにとの願意も篭っているのではないでしょうか?


 ちなみに、タチバナの漢字「橘」には「矛」も含まれているのが興味深いです。

 この記事の執筆中に改めて「橘」を調べてみると、旁(つくり)は「台座に立てた矛の象形」で、「矛」は幹の棘に由来していることを知りました。

 ということは、「橘」で最重要の特徴は「矛」になります。

 このことからも、伊邪那岐・伊邪那美の二神が鎮まる「二神山」が「立花山」に変わることができたのは、そもそも「二神山」自体に「天瓊矛」の存在が感じられていたからだと考えられます。

 しかし、「台座に立てた矛」に由来し永遠性を暗示する「橘」を使った「橘山」とはせず「立花山」にしたのは、永遠性の象徴でもある「岩」に「立」てた杖から「橘」ではなくシキミの「花」が咲いたからでしょう。

 こうしてみると、「天瓊矛」=「独鈷」=「橘」=「立花」=「シキミ」と言うこともできます。


左近の桜と右近の橘


 タチバナは京都御所の紫宸殿の右に植えられ、「左近の桜」と対で「右近の橘」と呼ばれていました。

 花が短期間で散って紅葉もする「左近の桜」と常緑の香り高い「右近の橘」は、一見すると対極的なもののようにも思われますが、「龍神考(28) ー竜顔の天孫と桜の女神ー」に載せた桜の写真を改めて見ると、花弁が重なり合っている部分の影の形が、タチバナやシキミの花弁のシルエットを連想させるものがあります。

サクラの花弁が重なった部分の影はタチバナの細長い花弁を連想させる(2020年3月27日)


 すると、桜の重なり合う花弁の影が暗示するタチバナとシキミの花弁にも意識を向け、「左近の桜」と「右近の橘」の間に「似て非なる」関係性を見出し、紫宸殿を左右の「似て非なる」もの同士の間に発生する「結び」=「産霊」の霊力で守ろうとする考え方があった……とは、考えすぎでしょうか?

 最澄が自ら彫られた薬師如来を祀った場所は、太陽神天照大御神の奉祀に始まる六所神社の境内に隣接しています(神仏混淆・習合の時代は同一境内)。

 最澄のシキミの杖は独鈷を介して天瓊矛に繋がり、天照大御神も「独鈷」だったことを思い出すと、最澄が壇鏡と独鈷を六所神社の近辺で発見、自ら彫られた薬師如来像を六所神社の隣に安置、その際シキミの杖から花が咲いたという一連の独鈷寺開創伝説は、天照大御神も意識して生まれたものであることが想像できます。

 ここで天照大御神を祀る神社には桜を神紋や社紋とするところが少なくない点も思い出すと、桜と「似て非なる」橘の両方をシキミは暗示しているのでしょうか?

 そう考えると、前掲写真のシキミの薄い黄色の花弁も太陽光線に見えてきます。


 春は表の桜の見栄えがよい六所神社は、拝殿と本殿の間に急な長い石段があり、本殿まで登って参拝して、また石段を降りていくと、拝殿の裏の屋根の飾りに入っている橘紋と七曜紋が目に留まります。

桜満開の六所神社の表参道から見える拝殿(2019年4月1日)


六所神社の本殿から石段を降りてくると拝殿の裏に見える橘紋とその下の七曜紋(2024年4月1日)


 六所神社は表の桜と裏の橘で守られているのでしょうか?

 七曜紋は北斗七星を表す紋で、薬師如来とその六体の分身を併せた「七仏薬師」を北斗七星に対応させる「北斗七星延命経」や、北極星=天照大御神=大日如来とする「太一」思想との関係を窺わせますが、今回は深掘りしません。


天孫降臨も暗示する独鈷寺の大日堂


 六所神社の境内は東西に参道が走り、西側の本殿は東を向いて立っているので、参拝者は西、春分や秋分の日没の方位を向いて太陽神を拝むことになります。

 六所神社の北西の独鈷寺には天照大御神の本地仏である大日如来の小堂があり、農作物の守り神のように信仰されています。

 大日堂は六所神社とは正反対の西向きに立っており、参拝者は東、春分や秋分の日の出の方を向いて大日如来を拝む格好になります。

 言い換えると、春分に天孫邇邇芸命が降臨される方を向いて、天照大御神の本地仏=大日如来を拝む形になりますが、すぐ隣に天孫降臨の案内をされた猿田彦神と同一視される庚申尊天の石塔とシキミが立っているのが興味深いです。

 前述のとおり、「シキミ」〜「立花」〜「橘」〜「独鈷」〜「天瓊矛」の連環に気付きましたが、各地の神社の御神幸にはしばしば雷神猿田彦神が矛を持って登場すること、また冒頭の中世日本の国土観の⑥天瓊矛が投げ下ろされた日本の海底にある大日如来の印文も独鈷、であることを思い出したからです。
 

独鈷寺境内の大日如来を祀る西向きの小堂と隣に立つシキミと庚申塔(2024年4月1日)


 また、独鈷寺から東南にあって、本殿が東=春分の日の出の方を向く六所神社(天照大御神ほか五柱の神々)の境内にも庚申塔(猿田彦神)が多く、独鈷寺大日堂=農作物の守護とする信仰に対応するような五穀神の石塔もあり、意味深長なものが感じられます。

「龍神考」では、太陽神の御孫(稲魂)が猿田彦神の案内で降臨された「天孫降臨」を春分の頃の太陽エネルギーの影響としても捉えてきましたが、その影響を受けるシキミの花期も桜の花期と重なるところがあるからです。

六所神社の境内に並ぶ庚申塔の一部と天水分神を祀る小祠、五穀神の石塔(2024年4月1日)

 ふと思いましたが、雷神でもある猿田彦神の持ち物がしばしば矛であることは、これまでの「龍神考」を踏まえると、「矛」=「雷」=「電」=「竜」とすることも可能でしょう。

 特に「竜」の「立」に「即位」の意味があり、「日+乚」または「申」は神々に守られ案内された「天孫」を暗示し、「竜」が「天孫降臨」を象徴していることを思い出すと、前述の「天瓊矛」=「独鈷」=「橘」=「立花」=「シキミ」もまた「天孫降臨」=「竜」に相通じるものであることが一層明瞭になってきます。

 実際、江戸時代には「立花山」と独鈷寺の山号「立華山」を意識したと思われる「竜化池(りゅうげいけ)」という池も立花山をすぐ拝むことができるような場所に造られています(現在はアパート、マンション等に遮られています)が、この池については次回以降に触れることにします。


 これまで某全国紙のベテラン記者の訓示として畏友から聞いた、「常識ではあり得ないと思われることが実はあり得る可能性を徹底的に考える」ことの重要性を、繰り返し強調してきました。

 神話や神社の御由緒、お寺の御縁起の内容と表現、境内に祀られている神仏への信仰は、近現代の学校教育を受けていない昔の人々の「無知」に託けて「迷信」を煽るものではなく、むしろ細々とした表現にまで太古からの信仰思想が反映され、時代の変遷に応じた信仰思想の発展、深化を伝えています。

 それは、立花山と独鈷寺に関する信仰思想でも認められました:

・「二神山」=伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が鎮まる二峰に見える」山

・「二神山」には伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が使われた「天瓊矛」も存在

・「天照大御神」(六所神社)=伊勢の内宮=「独鈷」=「大日如来の印文」

・「誓約」での天照大御神の象徴=「勾玉」=「玉+尾」=「巴」「円形・球形+細長い形」

・「二神山」の六所神社(天照大御神)の近くに最澄の壇鏡と独鈷を発見→天瓊矛と天照大御神(内宮の社形=独鈷)と最澄の独鈷の霊的接続

・「二神山」の大石(座禅石)に壇鏡と独鈷を発見→岩に立てかけたシキミの杖から開花「台座に立てかけた矛」を含む「橘」の言霊を意識した「立花山」に改称
*「石」、「岩石」、「橘」=永遠性の象徴

「天瓊矛」の「瓊(玉)+矛」→「壇鏡+独鈷」→「シキミの花+杖」

独鈷寺の大日堂(農作物の守護)+庚申塔六所神社(天照大御神)の多数の庚申塔と五穀神の石塔


 独鈷寺の御縁起は「史実」ではないと軽視する声もありますが、これまでの考察からすると、そこには中世日本の国土観が凝縮されていることはもはや疑うべくもなく、この視点から注目し直す価値があると思いますが、いかがでしょう?

 独鈷寺が開かれた立花山への信仰思想のまた別の面も見ていくと、唐から帰朝後の最澄が天台宗最初のお寺を開かれたのが立花山である必然性や思想的背景がより一層明瞭に浮上してきますので、次回はその別の面に話を進めていきましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?