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禅語を味わう...018:火裏酌清泉

火裏かり清泉せいせん


連日、厳しい猛暑が続いておりますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか?

さて、今回採りあげる言葉は、少し難しいかもしれません。禅語らしい禅語です。
標題の言葉、火裏に清泉を酌む...「裏」は、「内側」を指します。ですから、燃えさかる火の中から、清らかな泉の水を酌みだすという意味になります。
酷暑の今の時期であれば、まさしくそうありたいというところなのですが、よりによって、火の中から清水を酌みだして来るなどと言われると、ちょっと困ってしまうところです。
この言葉、お茶席などに掛け物として掛かっていることがありますが、お茶の世界を切り口にしてみると、少しわかりやすくなるでしょうか...

お茶の席で、心を込めて点てられた一服のお茶をいただく...至福の一時ですね。ふつふつとき立つ釜から、茶碗に柄杓ひしゃくで熱湯を注ぎます...茶筅ちゃせんの音だけが聞こえる静寂の時間...
心を込めて点てられた一服のお茶は、目の覚めるような緑...
見るだけで、清々しさに心も身体も清められるような思いがいたします。

京都の建仁寺を開かれた栄西ようさい禅師が、修行のために宋に渡ったときのこと、慣れない土地で、「しょあたって」とありますから「暑気しょきあたり」つまり、いまで言う「夏バテ」になってしまったといいます。
この時、一人の老人からいただいた一杯のお茶を飲むと、たちまちにしてこの「暑気あたり」が治まったというのです。それで、お茶を日本に持ち帰って広めたのだ、と。
お茶それ自体にかなりの効用があるのですから、心を込めて点てられた一杯のお茶は、私たちの身も心もさっぱりと清めてくれるわけです。少しばかり疲れを感じているときであっても、一服のお茶をいただけば、キリリと身も心も引き締まり、気力が 蘇って参ります。
ぐらぐらと沸き立つ熱湯の中から生み出される、清風のような爽やかな一服...まさしく、「火裏に清泉を酌む」の世界です。

しかし、この「火裏に清泉を酌む」というのは、「禅語」です。
禅の世界は、常に実践と体験の世界です。自分の身体で行って、自分の五感全体で感じ取り、受け止める世界です。ですから、「禅語」に参ずるときには、それを自分のこととして、真っ正面から受け止める...それどころか、ただわがこととして正面から受け止めるだけではなく、心も身体も最高度に働かせ、極限のフル稼働にしなくてはいけません。
この極限のフル活動にどれだけ近づけたか、ということが、この語に対しての、その人の理解の限界になるのです。そのためには、動いているときももちろんですが、坐禅をして微動だにしていないような静かな状態の時であっても、爆発寸前のように全身に気力がみなぎっていなくてはなりません。五感をぎ澄ませるどころか、全身が感性そのものになるまで感覚一つになりきってしまう...
音を聞くときは、全身が耳、香りを嗅ぐときには、全身が鼻...
禅の世界とは、最終的には、そのようなところまで行って初めて見えてくる世界です。そして「禅語」とは、こうした処で得られた体験、感覚をそのままらした言葉、つまり、心身の働きの極限において出てくる、生の体験の言葉なのです。こうした言葉は、禅の世界では「機語きご」と言います。「機」とは「働き」のことです。

灼熱しゃくねつの苦しみ」という言葉がありますが、これは何も熱さだけには限りません。何事であっても、人生を賭けて、真剣に、死にもの狂いで取り組んでいれば、誰もがこの焼け付くような苦しみを経験するはずです。「火裏」とは、まさしくそうした処のことなのです。
そして、その灼熱のような苦しみをくぐり抜け、乗り越えたとき、初めて本物の「清泉」が待っています。
「火裏に清泉を酌む」というからには、この「灼熱の苦しみ」が清められるようなものでなくてはなりません。ただ単に、熱いお湯を沸かして美味しいお茶を点てました、などといった生ぬるいことではないのです。
皆さんもご存じの千利休は、こんな歌を残しています。

寒熱の 地獄に通ふ  茶柄杓ちゃびしゃくも 心なければ 苦しみもなし...

この言葉は、修行道場に行った者ならば、誰もが実感を持って受け止めることができるものです。
道場の暮らしは、文字通り身を切るような寒風にさらされ、雨に叩かれ、陽炎かげろうが立ち昇るような真夏の強烈な陽射しに焼かれ...の繰り返しです。
「寒冷地獄」と「灼熱地獄」の間を行き来しているのは、茶柄杓なんかではありません。それは自分自身であり、この歌においては、利休自身です。
言うまでもないことですが、この歌で利休は、お茶の道、この「一筋の道」に連なる自分の歩みを、柄杓ひしゃくの姿の中に読み込んでいます。しかし、それは単なる比喩ではなく、覚悟を固めて、妥協することなく、昼昼夜夜ちゅうちゅうやや、草庵を掃き清め、水を汲み、炭をおこし、端坐たんざして茶を点てる利休自身の実感の言葉です。
殺伐とした戦国の世に、命懸けの地獄巡りをしているのは、利休自身です。そして、利休は歌っています。

心なければ、苦しみもなし...

熱いときは、ただひたすら熱さ一枚になりきっていく。
一心不乱に、ひたすらその時その時やるべき事柄に集中し、自分のやっていること一つになりきっていく。ここのところを、「無心」と禅では言います。利休居士の「心なければ」とは、まさしくこの「無心」の処を言っています。ですから、「苦しみもなし」といっても、魔法のように辛さや苦しみがなくなってしまう、ということではありません。
利休居士でいえば、茶の湯の道を自分の一筋の道と定めたからには、死ぬまで「地獄に通う」わけです。その苦しみ、辛さを、「無心」ということ一つで乗り切っていく...「無心」とは、「楽になる」ということではなく、地獄巡りを真っ直ぐ進んで行くための「一振り刀」のことなのです。

さて、今回の言葉は、実は対句になっています。全体を見ると、こうなっています。

雨中うちゅう杲日こうじつ 火裏に清泉を酌む...

禅宗頌古聯珠集ぜんりんじゅこれんじゅしゅう

「雨中に杲日を看る」...
「杲」とは、明らかであること。例えば「日が杲杲こうこうと輝く」というように、お日様に使うときには、白く光り輝いている様子を表現するのに使います。ですから、雨の中で、杲杲と光り輝くお日様を看る。
雨の日に、太陽なんか見られるはずはない...その通りです。あるいは、雨の日なのに太陽が光っていました。お天気雨なのでしょうか...そんな暢気のんきなことを言っているのではありません。
これは、先にも申しましたように、「禅語」であり、最高に研ぎ澄まされた「働き」から出てくる言葉、「機語」です。大切なのはあくまでもこの「働き」であり、「雨中に杲日を看る」というのであれば、杲日を「看る」というところなのです。ですからここでは、日常生活の中での雨だの、お日様だの、そのようなことはどうでも良いのです。
肝心なことは、「杲日」つまり真っ白に光り輝いている太陽をありありと観るように、はっきりと、自分が探し求めていたものを「看て取る」ことであり、しかも、雨中...薄暗く、普通であればそのようなものを見ることなど思いもよらないような場所、思いもよらないような時に、それをまざまざと目前に看て取っている、ありありと看ているのだ、というところなのです。

それはたとえば、人生を考えてみても良いでしょう。雨続きの梅雨のように、人生にも、暗く陰鬱いんうつで、光も射さないように思える時期がありますが、その暗闇のような日常のただ中にあっても、自分の人生を賭けた目標を見失わないでいく...暗夜の真っ最中に、切実に求める太陽の光...希望でも何でも良い、皆さんが心の底から待ち望み、乞い求める輝く光...それは、一体なんですか? 
陰鬱な人生の悪天候の中でも、その一縷いちるの光、一筋の道を見失わないで、しっかりと見据みすえていく。
それでは、この「見据えていく」というのは、どういうことなのか?

この時、肉眼に頼り、世俗の事柄に期待を抱き、希望的観測や単なる思い込みにふけってしまっては、修行の道にはなりません。
逆境の中にある時には、誰もが血眼ちまなこになって希望の欠片かけらを探し、僅かなしるしにも必死ですがります。しかしながら、そうしたものは、どれほど切実であっても、所詮は自分都合のものでしかありません。『金剛経』の一節に、次のように言われています。

若以色見我 以音聲求我 是人行邪道 不能見如來...

しきもって我を見、音声おんじょうを以て我を求めるならば、この人は邪道を行ずるのであって、如来にまみえることはできない...
「色」とは「形あるもの」のことです。眼に見え、耳に聞くことができるようなしるしを手掛かりにして救いの導き(我=仏)を求めるならば、それは仏道の修行の道から外れた行い(邪道)に陥ってしまっているのであって、真の仏の道を得ることはできない、というのです。
自分都合でしかない、たいした根拠も無いものに縋る時、わたしたちは「見据えるべきもの」から眼を逸らし、進むべき道筋から外れてしまうのです。どれほど苦しくとも、いついかなる時も、何をするにも、すべてを忘れて、ひたすら、いま、自分のやっていること、やるべきこと一つになって行く。この「無心」の行を行う以外に、道はないのです。

ここまでお話ししたからには、さらに踏み込んで、わたしもここで、皆さんに質問しなくてはなりません。

 皆さんの「杲日こうじつ」は、一体なんですか?

そして皆さんは、その光「杲日」を自分の目でしっかりと見ていますか?
陰鬱な人生の悪天候の中でも、その光を見失わないで、しっかりと見据えていますか? 
この「杲日」は、肉眼で見ることができるものでもなければ、何となくぼんやりと感じるようなものでもありません。既に見たとおり、

若し色を以て我を見、音声を以て我を求めるならば、この人は邪道を行ずるのであって、如来に見えることはできない...

なのです。「杲日」とは、人生が「うまく行きそうな」兆候を指しているのではありません。確かにわたしたちは、人生において「うまく行きそう」な兆候を目にすると、そこに明るさを感じ、期待を抱きます。しかしそれは、雨が降ったり止んだり、陽が照ったりかげったりする様に一喜一憂しているだけではないですか?

人間の存在は小さなものです。わたしたちの生命ははかなもろい。だから、そのようなものに一喜一憂していても、何も始まりません。そうではなく、わたしたちが生きていく中で、無力なわたしたちにはどうしようもないような事柄ではなく、人生のさまざまな変転の中で、それでも決然と次の一歩を踏み出す時、わたしたちの心を鼓舞し、勇気を与えるものは何ですか? 
わたしたちの人生を「うまく行く」などと保証することはできないけれど、それでも「よしっ」と人生を引き受ける勇気を与えることによって、わたしたちの脚下を照らしてくれるものは何ですか? 
それこそがわたしたちにとっての「杲日」であり、それは、わたしたち自身の心の中にあるのです。
「雨中に杲日を看る」という時、わたしたちは繰り返し、誤魔化すことなく、妥協することなく、自分自身に向かって問い続けなければなりません。「杲日」はどこにあるのか? と...
それは、暗闇の中の一筋の光などというものではありません。真昼の太陽のように、杲杲こうこうと光り輝いて見えていなくてはならないのです。なぜなら、その光は、わたしたち自身の心の中に耀かがやいているものなのだから。
どれほど切実に求めても、それが与えられることは、まずありません。殆どの場合、その切実さは、欲望や執着から生まれたものだから...
しかし、切実に求めるその切実さが、次の一歩への力の源泉となる時、必ず道は開くのです。

さて、ここで標題の禅語「火裏に清泉を酌む」に戻ることとします。
もう、おわかりのことと思いますが、大切なのはまず第一に「清泉を酌む」という処です。
「清泉」、清々しく、清らかな水。その「いのちの源」を酌みとって、私たちは心も体も蘇えり、生き生きと活動を始める...そんな感覚です。そして、そのみずみずしい「いのちの水」を、燃えさかる炎の中から酌みだしてくる...
例えば、深山渓谷に分け入り、人の通わない大自然のまっただ中に入って清泉を酌むことは、確かに大変なことではあるけれども、苦労して歩んでいけばそこに清泉があることがわかっている道です。
しかし、およそ清らかな泉の水がないような場所、ごみごみした大都会の雑踏、時間に追い立てられて心の潤いを無くし、感性も情動も乾涸ひからびてしまったような都会の砂漠...
いや、それどころか、お互いに不満と愚痴をぶつけ合い、怒りの炎が熾烈しれつに燃えさかる地獄のような場所で、そのまっただ中から、清らかな一杯の清泉を酌みだしてくる...これが「火裏の清泉」です。
さて、皆さんの「清泉」は何ですか?

修行の現場では、師匠である老師と弟子である修行僧、雲水は毎日真剣勝負です。老師の前に立つと、足がすくんだり、緊張でものが言えなくなってしまったり...
修行の現場は、追い詰め、追い立てる師匠と、それに立ち向かう弟子との間の修羅場です。その葛藤の苦しみが、燃えさかる焔です。そして、辛く苦しい修行の現場の中に踏みとどまって、そのまっただ中から自分自身の「清泉」を酌みだしてくる...これが修行の課題なのです。
猛暑の続くこの季節、この暑さのまっただ中に「清泉」を酌むこと...こんなところにも修行の機会があります。もちろん、ただ、やせ我慢をするのではいけません。やせ我慢と見栄の世界には、「清泉」など求めるべくもありません。
「火裏に清泉を酌む」...ぐらぐらしゅんしゅんと沸き立つ茶釜から酌みだされる熱湯の地獄、そして、ここから生み出される一杯のお茶...今のような時期には、冷水で点てるお茶も良いものですが、熱々の一杯によって、かえって暑気は吹き飛んでいったりするものです。

熱さのまっただ中に、清々しさを得る...

これは、大変に難しいことです。しかしわたしたちも、日常の小さなことからコツコツと努力を積み重ねながら自分の「清泉」を酌み上げ、自分はもちろん、自分の周りにいる、一人でも多くの人たちに、清々しい一服のお茶のような「清泉」の水を、振る舞うことができるように努めていきたいものです。

写真:工藤 憲二 氏

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