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#22 蓄えた翼で見る空は…… 【7年間の不登校から大学院へ】

  #1 を4月に投稿してから約2ヶ月間にわたって20話以上を投稿してきましたが、

ついに本記事 #22で最終回として締めたいと思います。

読んでくださった方、いつも「スキ」をポチッとしてくださった方、コメントをくださった方、そしてフォローしてくださった方など、本当にありがとうございました!!



小学3年生から学校に行けなくなり、さらに中学校では2度目の不登校になり、7年間の不登校生活を経て、紆余曲折がありながらも大学院まで進学することになった、そんな約20年間をありのままに綴った一連の記事はプロフィール欄からご覧ください。

就職か進学かで迷い、最終的に大学院への進学を選んだ前回記事はこちらから。


最終回の本記事では、大学院での2年間と、 #1の冒頭で書いた「習うとは、白い羽を一枚蓄えること」という先生の教えに習って、毎日一枚ずつ羽を蓄え続けた翼で飛ぶ空から見えたものについて書いていきます。




大学院入学

 大学院1年生。23歳。 

同い年の友人たちがリクルートスーツに身を包んで入社式に出席していた日、私は大学院の入学式に出席していた。

大学に入学したときと全く同じ場所で、2度目の入学式。


大学の学部生と同じ会場だったため、初々しい新入生たちを傍目で見ながら、自分もあぁだったのだと4年前の入学の日を思い出していた。4年前の大学の入学式は不安でいっぱいだったな、なんてことも。


でも、そんな不安を期待で塗り替えようと、入学後に出会った先輩から口々に伝えられた「後悔のないぐらい勉強をして4年を過ごしてほしい」という言葉を忘れないようにと、大学4年間を過ごした。



社会人になったいま振り返っても「あのときもっと勉強しておけばよかった」と後悔することは一度もない。だって大学生から大学院卒業まで、もうあれ以上は勉強できないという日々を過ごしたから。

とてもハードで大変だったけれど、たくさんの人に支えられながら、なんとか大学を卒業することができた。次は大学院だ。


初々しくも不安な面持ちで入学式に参列している学部の新入生を見ながら、私は大学院という未知なる領域に、今度は期待いっぱいな気持ちでこれから始まる新しい仲間との大学院2年間に想いを馳せていた。




大学院での授業

 大学院の授業は本当にハードで、最初は教授がなにを話しているのかすら理解できないレベルからのスタートだった。


未知の領域というか、ざっくりと例えるなら、

大学の課題は、あちこちに点在している情報をテーマに沿って集めてきて、それを自分の手で体型的にまとめて答えを提出するようなものだった。

でも大学院の課題は、点在するありとあらゆる資料を参考にしながら、ときにはすでにある答えを引用しながらも、それらを材料にして自分で全く新しい答えを導いて作り出すような感じというか。 0 → 1 が求められるような感じがした。


専攻分野もなにも書いていないから、なんのこっちゃという感じだと思うけれど、とりあえず大学院の授業内容はとても難しかったのだ。



授業中に教授から語句や概念の説明などを求められても咄嗟に答えられなかった。それどころか鋭い質問にタジタジになり、答えを知らず覚えてもおらず、しどろもどろになりながら講義を受ける日々が続いた。

毎日、必死についていこうと勉強するのだけれど、そんな数日やたった数週間頑張ったところで急激に実力が上がったりするはずもない。


でも1週間単位で成長が見られないと、到底ついていけないようなスタートに思た。


大学院の2年間は泣きながら勉強していたことが多かった。
ずっと歯を食いしばって頑張っていたら、本当にその言葉通り、食いしばりで奥歯が痛くなって歯医者さんに駆け込んだこともあった。



周りの院生は私よりもずっと賢くて、仲間でありライバルでもあったから弱みを見せることもできず、必死に着いていこうと一人でもがく毎日。それでも自分が出来ていないことを、自分の実力が及んでいないことを自分で一番実感する毎日。

講義内でも教授に指摘されることも多くて恥ずかしかった。



明るい時間から外が真っ暗になるまで、ひたすらコーヒーとチョコで極限まで集中力を高めて研究室で勉強していたのだけれど、なかなか実力は上がらなかった。

自分の限界はここまでなのかも、とも思った。成長が止まってしまっても、その原因も改善点も全ては自分で探し出さなければ、誰も教えてくれない。

全ては教授たちが教えてくれるものではなく、自分で見つけ出さなければならなかった。自分が勉強すると決めた学問に対して、ひたすら向き合うしかなかった。


自分が悔しくて、よくお風呂で泣いた。
発表など本番へのプレッシャーも毎回すごかった。



寝ているときに見た夢では、教授に怒られて、私だけが周りの子たちよりも落ちていく夢を見たりして、泣きじゃくる自分の声で起きたこともあった。子どものように泣きながら、母がいるダイニングへと降りていったときが私の勉強生活でのいろんなピークだったと思う。


自分がそんなピークにいても、私が選んだその学問分野はいつまでも高い壁だった。自分との孤独な戦いだったけれど、どうにか少しでも上からの景色を見てみたくて、必死に乗り越えようとしていた。




当時、私が勉強を頑張れた理由


 勉強をやり続けるには、気持ちのモチベーションとなる目標がないと、ただのつらい作業になってしまいます。


当時、私が勉強をそこまで頑張れた理由。

それは、スターの存在でした。


スターとは、はて?? と思われてしまうと思うので、また少し寄り道で雑記を書いてみます。



大学1年生で18歳のとき、とある舞台を観たのがきっかけで、そこに出演していたスターさんに惹かれました。いわゆる世間では「推し」と呼ばれる存在です。


ただ当時の私は大学の勉強だったり留学に行ったりと余裕がなかったため、それきりになっていました。でも大学3年生の夏ごろ、また舞台を観劇した際に、たまたま座った席がちょうどその「推し」の真正面の席で、ずっと目で追いかけていたら向こうもそれに気がついたのか、最後にファンサをもらったのです。



興奮冷めやらぬ状態で帰路に着いた私は、その大興奮と感動のパワーで「明日から私ももっと頑張る!」と素直に燃えている自分に気がつきました。そこから何日経ってもその熱が冷めることはなくて、「……やっぱり、どうしてもあの人に恩返しがしたい! ファンクラブに入りたい!」となり、実際にその「推し」のファンクラブに入りました。


結局、舞台を観て感動した18歳のあの日から、一途に熱心に応援し続けた期間のトータルは約7年間にもなり、最後はその人の卒業をもってファン活動は半ば強制的に幕を閉じました。



7年間、18歳から25歳まで。


奇しくも不登校だった7年間と同じ年月。



青春の真っ只中の時期に、そのスターがいたから、私はその姿を見るたび無限に頑張れたし、その人が頑張っているから私も頑張ろうと素直に思えたのです。



本当に、その人がいたから、その人のおかげで私は頑張ることができた。



学校生活へ憧れを持ったのはAKB48がきっかけで、そして高校での劣等感のガソリンを燃え尽くしたあとは、その推しのミラクルパワーで大学と大学院で勉強を頑張り続け、無事に修了することができました。


どんなにしんどい朝でも、推しを見たパワーで頑張れたり、推しが出演するイベント付近にテストがある日などは「絶対にこのイベントまでにTOEIC800点を突破して、大学のテストでもA判定を取るぞ!」と、その一心で勉強を頑張り続けることができました。




私にとって、その推しは、本当に「スター」でした。


まるで夜空で輝く星のように。


不登校を乗り越えて、ブランクを埋めるべくコツコツと必死に羽を蓄えて続けて上に広がる空を目指していた私でしたが、その道のりの途中では何度も「自分には無理かもしれない」と思い、さらには「もう、そんなに上を目指さなくてもいいか」と思って、自分を頑張ることを何度も諦めようとしました。



明るい日中に晴れ渡っている空を見て、「あぁ、綺麗だなぁ、あの空を飛んだらどんな気持ちだろう」と思うのは簡単でも、夜の真っ暗な空を見上げると、地上と空の見境がつかなくて「もう、あそこまで行けなくてもいいか」なんて思ってしまうことがあって、むしろそちらの気持ちに傾いてしまうことの方が圧倒的に多かった。


周りは真っ暗で、いくら頑張っても自分はどこにも到達できないんじゃないかと思ってしまうとき、こんなに頑張っても意味がないんじゃないかと思ってしまうとき、やっぱり自分はダメなのだととてつもなく孤独を感じてしまって消え入りそうなとき。



そんなときに夜空を見上げると、いつでもそこに、輝くスターがあった。


真っ暗な夜道を歩いていても、見上げるとそこにスターがいつでも瞬いていた。

ただずっとそこにいてくれて、輝いていて、その存在が私にとっての「救い」だった。


夜空に瞬き輝くスターを見つけて、そのスターから放たれる光を見て「綺麗だな」と素直に思って、するとやっぱり、自分も頑張って少しでも上に、もっと空に届いてみたいと願うようになって。



その存在があったから、私はずっと上を向くことを忘れなかった。


だからずっと上を向き続けることができた。


たとえ周りが真っ暗に感じるときでも、空を見上げることを決して忘れなかった。



明るいときもそこにいて、暗いときでもそこにいて、

光り続ける輝くスター



その存在が私にとって、とても大切でした。
心の底から今でも、ありがとうという気持ちでいっぱい。



私にとって永遠のポップスター

そのスターの存在が、私にとっては夢の原点で。
それはいつまでも変わらなくて。
私にとっての永遠のポップスター、本当にありがとう。





……もしかすると、やっぱりきっかけって、こんなふとした出会いだったり、楽しいことだったり、心が明るく軽くなるようなことだったりと、一見とても些細に思えてしまうことなのかも知れないなぁと、反芻しています。



#11 でも書きましたが、不登校だったとき、自分は学校に行っていないのだから楽しく過ごしちゃいけないんだと勝手に思い込んでしまっていました。


「楽しい」や「遊び」と括られるものに対してどこか罪悪感を持ってしまっていたのです。


でも実はこの「好き!」という特に根拠がない自発的な気持ち、明るく前向きな「楽しい!」という気持ちは想像もつかないほど、結構パワフルでした。



今まで感じていた色んなブロックを全てポーンと飛び越えてしまえるような、そんな不思議なパワーがありました。



冒頭に書いたように、私が社会人になった2年目に私にとってのスターは卒業してしまいましたが、いまでも変わらず私の永遠のスターであり夢の源です。



自分にとってのスターを見て、届けてもらった無限のパワーで勉強を頑張り続けられたことが、あのしんどかった不登校時代を少し塗り替えるほど、私にとっての青春となりました。


やはりキッカケやサーチライトは、思わぬところに転がっていたりするものなのかも知れません。




さらに、それを見つける or それに気がつくのに最も大切な気持ちが「楽しい!」「好き!」といった一見なにも根拠がないような、明るく楽しく、まるで風に乗るように軽い気持ちでいることなのかもしれないな、と思います。



もちろん、いつでもそんな気持ちでいることは難しいときもあるけれど、自分を幸せにしてあげられるのは自分しかいないのだから、これからも自分の気持ちには素直に、そして楽しい方へと恐れずに歩んでいきたいです。




ズタズタの中間発表と学会発表

 大学院2年生、24歳。

大学院は、中間発表や口頭試問などの関門を一つ一つ順番に突破していかないと修了(卒業)できない仕組みになっている。さらに講義ごとにも厳しい合格ラインが決まっていて、それに満たないものが一つでもあると2年で修了するのは夢のまた夢になってしまう。


しかも最終的には最も大切な修士論文を完成させて、学会などで発表を重ねて、最終的に卒議場試験である口頭試問で合格をもらえないと修了できない。



もうあまり詳細には書かないけれど、中間発表という関門では、私の研究内容も論文もズタボロだった。教授たちからも、落胆のため息といった感じで、無事に2年で修了できるのか本当に分からなかった。


さらにこれに並行して就職活動も行っていたため、エントリーシートやSPI対策、企業研究、面接対策など慌ただしい毎日だった。


就職活動では「文系の大学院生は就職が一番難しい」という情報を目の前に大丈夫かなと思っていたけれど、実際は身構えていたほどでもなかった。


ちゃんと企業研究をして、面接でもなんでも真摯に受け答えしていたら、大丈夫だった。実際に私も第一志望だった会社から内定をもらえたし(半年後には新型コロナの影響で辞職したけれど)、他の大企業の選考でも進めたりしたから、大丈夫だよ! と伝えたい。


ただ就職活動はみんな口を揃えていうように、本当にメンタルにきてしまうので、就活における理不尽なことだったり、面接官からどんな判断をされても、どんなことを言われようとあまり気にしない方がいい。

あと、最終面接だからこれで絶対に内定が欲しい! と思うからといって、企業から提案される無理強いの条件などにも、軽々しく「はい」なんて答えちゃダメだった。

「ここは違う」とか「ここはちょっとやばい感じがする」とか、「この面接官なんか嫌な感じ」と思ったら、選択の権利はこちらが握っているのだから、絶対にそこで折れずに自分のための選択をした方がいいと思った。




卒業試験、口頭試問、結果発表

 大学院2年生、24歳。
あと3ヶ月後には新社会人になるという頃。


ドキドキしながら迎えた年内最後の学会発表の場では、生まれて初めて教授から「うん。良い感じじゃないですか」という最大限の褒め言葉をもらった。


いつも厳しい教授からそんな言葉をもらったのは6年間で初めてのことだった。
好きな学問を頑張ってきてよかった、と思った。



修了試験である口頭試問でもなんとか全部を出し切って、迎えた結果発表の日。
私は真冬のキャンパスの廊下で、自分の名前の横に「合格」の文字を見た。

6年間ずっと通ってひたすら勉強に向き合ってきた大学の廊下。

そこで見た「合格」の文字は格別だった。





6年間通った母校からの旅立ち、大学院修了

 18歳から24歳まで、6年間通った大好きな母校。

卒業式は新型コロナの影響で中止になってしまったけれど、それも関係ないぐらい清々しい気持ちだったのを覚えている。未練がない気持ちと達成感に近いものがあった。


長いようで短くて、でもたしかに濃かった6年間。



勉強のしんどいところは、自分のために頑張り続けるところだろうか。
自分で自分を鼓舞し続けて、自分で自分のために頑張り続けることを続けるところ。ひたすら一人で机に向かうところ。

ただ、そんな地道な日々を積み重ねていると、見えてくる景色はたしかにあった。



先生が話していた言葉で、ずっと心に残り続けているものがある。


 「習う」とは、白い羽を一枚手に入れること



 ある授業で先生は言った。

「『習う』という漢字は、白い羽と書くでしょう。毎日なにか1つを習う。そして白い羽を一枚手に入れる。それを365日、続けたとする。すると3年足らずで羽の数は1,000枚を超える。するとそれは、翼になる。

翼が大きければ大きいほど、高く遠いところまで飛べる。翼を持った者でしか到達することのできない領域には、同じ枚数の羽を蓄え習ってきた人が集まる。

あなたたちの背中の翼は、卒業のときどうなっているでしょう。

これから白い羽をたっくさん蓄えて、大きな翼でこの空を高く遠く自由に羽ばたいていってくださいね」

とある先生の言葉



 先生、私が蓄えた白い羽はいま、ちゃんと翼になっているでしょうか。


先生の言葉を心に思い出しながら、不登校だった日々も含めて不器用ながらに習い続けました。

それらの羽を携えて飛ぶ空は、一体どんな景色が広がっているのだろうとずっと憧れながら。



それらの羽を携えて実際に飛んでみた空。


その空は、どこまでも遠くて広くて終わりが見えそうにありません。



でも、空には終わりがないことを知れたのも、羽があって翼を持ったからこそなのだと知りました。


だから、最初の問いへの答えを私はすでに知っている気がしています。


だって、いま見える景色は以前とは全く違うから。

確実に以前の自分では出来なかったこと、分からなかったこと、知らなかったであろうことが経験できたから。


これからも羽を蓄えて、もっともっと翼を大きくして遠く高く羽ばたけるように精進します。


そして、なによりも「習う」ことの楽しさと豊かさを教えてくださって、本当の教育をしてくださって、ありがとうございました。



私に関わってくれた全ての人、先生、教授、友人、永遠のポップスターに、そして何よりも両親と兄に。

ここまで読んでくださった、あなたに。

心からの感謝の気持ちを込めて。

【7年間の不登校から大学院へ】
〜 完 〜









あとがき

 ふぅ〜、長かった!!!!!

いや、読んでる方からしても長いよ! 途中とかすっごい暗かったし! そうかと思ったら急に勉強ばっかりの話だし! なんて思われているでしょう。



どれもこれも等身大の私で、本当に自分の過去を全て出し切るつもりで、ありのままに書きました。

その書く過程をたとえるなら、当時はうまく表現できずに、とりあえず心のなかのダンボール箱に詰め込んで仕舞い込んでやり過ごしていた色んな感情などを、大人になってもう一度アンパックしてみて、そしてマジマジとそれぞれを見て断捨離をしていった感覚でした。


一つずつ取り出してみて、当時なにを感じていて、今ならどう感じるかとか。


ときには当時の心境などを思い出してしまって、しんどい気持ちになってしまったりしましたが、こうやって全て書いて改めて自分で読んでみたりなんかしてみると、途中からまるで他人事のように思えてきたのが不思議でした。


すっごい客観的に自分を振り返って見たら、
「はぁ〜、これは親御さんすごい大変だっただろうなぁ」とか素直に思っちゃったりして(私のことを見捨てずに支えてくれた両親には、本当にいつまでも頭が上がりません)


だから、もし今しんどい思いを抱えている人は、一度こうやって全てを書き出してみると心が少し軽くなるかも知れません。


私が書いてきた文章も自分視点でしかなく、ただ辛かったとか、しんどいとか、孤独だったなんて色んなことを書いてきましたが、どれも当時は実際にそう感じていて、自分のなかで渦巻いていた感情そのままです。


でも、少し大人になったいまから改めて思い返してみると、どうして当時はそうとしか思えなかったんだろうとか、いまならこう考えるのにな、こういった選択肢があるって気がつくのにな、なんてことも思いました。


つまりは、過去の自分と今の自分は、紛れもなく同じ人間なのだけれども、全く違う人間のように感じることもあるということです。

だから、過去に引きずられすぎることなく、過去は過去としてもう手放して、いまを軽く明るく楽しく生きていこうぜ的なことが伝えたかったのです。それは自分に対しても。


"the past is in the past"
「過去は過去、もう過ぎ去ったもの」

映画「アナと雪の女王」"Let It Go"の歌詞から一部引用



こんなふうに文章をひたすら書いてきて、拗らせてるなぁとか、複雑で繊細で難しい子だなとか色んなことを思われるのも百も承知、覚悟の上で更新してきました。



そんな自分の「恥ずかしい」なんて些細な感情よりも、「今」まさにそんな苦しい気持ちを抱えている人に、なにか少しでも届けられたら伝えられたら、心が軽くなってもらえたらと思いながら。


私にとっては過去の話が、どこかの誰かにとっての「今」かも知れないから。


私が大人になるまで辿ってきた道。


明るさ、暗さ、喜び、悲しみ、楽しさ、苦しみ、嬉しさ、怒り、感謝、失望、希望、暗闇、輝く光。全てが表裏一体。



どれもこれも、私にしか経験できなかった日々。

だからこそ、意味がある。


そんな私の約20年間? の日々をありのままに綴ったこんな長い文章を読んでくださった方、本当にありがとうございます。

この一連の文章のどこかで、どこかのだれかの気持ちが、心が少しでも軽くなればそれ以上に嬉しいことはありません。


なんだか、これだけ色んなことを一丁前に書いてきて、最後はどんな感動的な言葉で締めたらいいかなとずっと考えてきたのですが、周り回ってやはりこれしか思いつきません。



Enjoy your Life!!



……最後の言葉がなんだか拍子抜けするぐらい軽くてごめんなさい(笑)



でも、クスッとでも笑えてもらえたら、それでいいや。

いや、それが良いから。


どんな道でも、明るく楽しい気持ちで、


自由に心は軽く、自分らしく幸せに生きることが大切だから。



最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!!

2022年6月吉日


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