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葛藤に疲れた

「もっとこういう思考や言動をしなければ」「まともな人間でい続けなければ」という理想を持っていても、現実の自分にはその通りにできないことも多い。それでも忍耐強くジレンマと同居しながら努力し続けるべきなのだろうが、自分の場合は、理想に到達できない自分を責めて、疲れてしまう。現実と理想との距離が近いか遠いかが測れず、到達できたorできていない、というゼロor百の白黒思考になってしまう。

以下では、自分の理想(固定観念)と現実との乖離状況、つまり「わかっちゃいるけどできない」という苦しさについて、とりあえず具体的に書き出しておく。


「苦労の度合いは結果には関係ない」

とわかっていても、うまくいかないと「こんなに努力したのにだめなのか」と落ち込んでしまう。「今まで結構頑張ったんだけど、まだ頑張らなければいけないのか」としばしば絶望する。例えばこんなに頑張ったのにいつまで経っても人生が終わらない(これは取りも直さず主体的人生を始められていないという意味でもある)。

「無為や無駄や無益を大事にしたい」

と思っているが、時間や金銭をかけた結果それが無駄だったとわかると、損をした気分になる。効率を求めたり焦ったりしてしまい、生産性を捨てられない。これについては、もっと本を読んだりして事例や考え方を蓄積してから出直したい。

「少しくらい役立たずでもいいじゃないか」

と思いたいが、役に立たなければと思って頑張ってしまう。等身大の役立たずでだめな自分の一面を受け入れられていないらしい。財産や名誉はどうでもいいが、「自分に何かの経験・能力・人徳が足りなくて役に立たないのだ」と思える場面では内心落ち込んでしまう。しかし理想の人間像は遠すぎて到達不可能に思えて、どうせできないと感じる。できなそうなことについて努力を続けていると、たまに疲れる。

「自分の能力を客観的に評価してアピールした方がいい」

とわかっていても、アピールできない。過小評価したり、能力があるのを言い出せなかったりする。結果、後で自他共に色々と不便なことになる。自分に関しては、レベルを勘違いされて適切な助言が得られなかったことや、必要以上に見下してくる人がいるためにそのグループ全体との付き合いが難しくなったことがある。他人に関しては、自分が役に立てたかもしれない場面で適切なところに配置されておらず、組織全体が損をしたりする。色々経験して見識を広めれば、多少は客観的な判断基準が身につくのだろうか。

「外部ではなく自分の基準に従うことが、自他に良い結果をもたらす」

わかっていても、できない。例えば、「〇〇は嫌だ」という自分の感覚について、そんな意見を口にするのは非常識ではないかと疑って考え込んでしまうので、相手に言えず、とりあえず受け入れてしまう。そのときの心のモヤモヤは、後から時間をかけて自力で晴らさなければならなくなる。逆に、自分のしたことを相手に拒否されると、それがきちんと言えることに驚くし、立派で羨ましいと思う。言えない自分が恥ずかしくなる。しかし、どの程度の状況ならば相手に言うといいのかが、まだわかっていない(追記:自分が嫌だと思うことを明確に発信することは、相手も自分も共に快適であるための主張なのかもしれない)。

「困ったら早めに他人に助けを求めるべき」

だが、我慢して最後まで本心を隠し通してしまう。隠すための努力を惜しまないので、後で疲れてしまう。

「心が伴わなければ形だけ真似しても意味ない」

とわかっていても、形を真似して心が伴った気になってしまう。例えば、リラックスできなくても、リラックスしている人たちの仲間でいたいときなどに、「リラックスしている人がしそうなこと」をして(それ自体は適切な行動だろうが)、それがリラックスするということなのだと思い込んでしまう。感情や感覚が鈍いうえに、自覚を保てていないようだ。「形だけ」であることの虚しさすらも抑圧しがちなので中々進歩できない。

「他人を尊重し、適切な態度や行動で示すのが、人間らしい交流だ」

と思って努力しているが「自分には上手くできない」としばしば開き直りがちである。例えば、困っていそうな人の力になることをそれなりに心がけている。しかしその判断は「自分だったら助けてほしい・こうされたら嬉しいだろうな」という共感ではなく、「たとえ相手に喜んでもらえなくても、この状況ならまず声をかけた方がいいだろう」という、経験からの類推に基づく。だから他者への優しさの向け方や度合いにどうしても限界がある。心から他者を慈しんで向き合っている様子の人と一緒にいると、「自分は人としてだめなんだ」と劣等感を感じる。それでもやらない善よりやる偽善であろう。そういう修行なのか。

「元養育者に存在を望まれないのはよくあること」

とわかっていても、少しでもマシな境遇の人々と自分を比べては、自分はみんなと違うと落ち込んでしまう。その人たちだって別のところで苦労しているはずなのに。
生まれてきたのは自分の責任ではないにもかかわらず、自分は、結果的に元養育者に「この自分」を望まれていなかったこと、つまり自分を受け入れてもらえなかった過去について、損・恥・劣等の感覚を持っている。自分みたいな事例は古今東西にありふれていると頭ではわかっていても、上記の感覚のせいで、家庭環境について他人に直接、正直に話すことが難しい。

「親しい他人に対して愛情表現をしてもいい」

とわかっていても控えてしまい、相手ほど、あるいは相手が期待するほど打ち解けられなくて、そんな自分が残念な気がしてくる。それでも「自分もあの、支配を愛情と思い込んでハラスメントを繰り返す人々と同類なのではないか」と思うと、親愛の情の表明を抑制せずにはいられないのである。

※上記に関して。「お前は既に、友情や戯れを建前に、近しい人間を支配をする言動をしている」というようなことがあれば謝ります。拒否・逃走等をなさってください。もし改善の機会をくれるのならば、直接連絡をもらえると嬉しいです。

「固定観念にこだわってしまう自分を一旦受け入れないと、次に進めない」

とわかっていても、うまくできない。どんな固定観念かは以上に挙げた通りである。こだわってしまって自分で自分の首を絞めている。それについては、さらに自分を責めたり、残念な気持ちになったり、あるいは、「へぇ大変そうだね」とまるで他人事のように思えたりもする。

おわりに

「人としてこうありたい」という理想を追求して、試行錯誤しながら誠実に生きようとする人たちの姿には、密かに勇気をもらっている。自分も諦めないでその人たちを見習おうとよく思う。すぐに変われない自分に耐えようともしている。でも時々こうして自分という器が「できないこと」で溢れかえってしまって苦しくなるのである。

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