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大学階層上位で得すること・しないこと

こんにちは、成り上がり大学院生です。
近況はこちらの記事へどうぞ:「学部・院で異端児だとこうなる 〜消された理解不可能性〜」

大学階層上位にいることや、その学歴に付随する将来の収入は、人の価値・幸福度・周囲を幸せにする力とは別物である。しかし、日本において大学階層上位にいることが私の社会生活に与える影響は大きく、無視することはできない。

そこで、大学階層を批判するために、私が自分の肩書きから受けている恩恵・災難をまず一度リストアップしておこうと思う。

*ここでは、日本では四年制大学に進学した時点で「高学歴」である、という前提に立ち、さらにその高学歴者の中の階層構造=「大学階層」について述べる。つまり学歴の「高」「低」の話ではない。

*すべて個人的な体験の話であり、一般化できるとは限らない。


得すること1 どこでも待遇が良くなる

何もしていないのに「すごい」「偉い」と言われたり、具体的な根拠もなく尊敬されたりする。博物館で学生証を提示したとき、受付の方の態度があからさまに丁寧に変わる。物件探しのときなんかにも少々有利であろう。


得すること2 馬鹿にされなくなる

私は女性でコミュニケーション能力が低く、かつ気弱で頭が悪そうな見た目だからか、幼稚園の頃から舐められ馬鹿にされやすい(と自覚している)。それゆえか、知り合い・親戚・先輩・同輩・後輩・初対面の人など、様々な人に話を聞いてもらえない、あるいは馬鹿にした態度を取られることが多いと感じてきた。

しかし、こちらの大学名が明らかにされている場面では、会話やジェスチャーにおいて対等な態度を取ってもらえ、以前であればスルーされていた自分の意見にも、意味がある話として耳を傾けてもらえることが増えたと感じる。


得すること3 顔と名前を覚えてもらえる

有名な大学の肩書きを持っていると、学会や研究会、親戚の集まりなどで覚えてもらいやすい。


得すること4 生涯賃金に少々期待できる

現在の日本社会では、学歴と年収がそれなりに比例している。さらに大学階層で上位だと大学や研究室に人脈・情報網・ノウハウが揃っており有利である。

確かに高学歴ニートになったりポスドクになってから脱落したりといった例はある。誰に何が起こるかはわからない。それでも私は日本学生支援機構からの無利子の借金について、このままキャリアを進めていけば将来返済できるという自信がなんとなくある。大学階層上位の大学がそのような希望を与えてくれる環境であることは事実だ。


次に、損することについても見ておく。

損すること1 「勉強はできても仕事はできない」と嫌味を言われる

このような発言をする人は、勉強できること自体に価値があると思っているのだろうか?なぜ「持久力」や「話術」ではなく「勉強」を引き合いに出したくなるのだろうか。

発言の真意はわからない。日本の小中高では各科目で人間の価値を測り「お前はだめだ」と刷り込むのが多数派のようなので、少しでも上位にいる(ように見える)人間に恨みをぶつけたくなるのかもしれない。恨むべきは「上位者」ではなく構造の方なのだが、「上位者」はその構造で得していることがあるので文句は言えない。文句をたれてる暇があれば構造や認識を変える努力をするべきなのだろう。

なお私の実体験から、これは大学階層上位者・高学歴者の双方に当てはまる話であるといえる。


損すること2 肩書きばかり見られる

どんな肩書きでもそうなのだが、私という人間ではなく「あの有名なナントカ大学の院生」として偏見いっぱいで接せられることがある(常にではない)。特に気まずいのは他大の方から「ナントカ大学なのにこんなこともできない/わからないのか」という視線を受けやすいこと。はいできません、わかりません、だって凡庸未満の人間だから…。

しかし前述の通り、肩書きなしの個人として見られたら私はただ舐められるだけで話など聞いてもらえなかったかもしれない。損は得の裏返しということか。


損すること3 学内で落ちこぼれやすい

大学階層上位になると周囲に優秀な人間が多いので、私のようなちゃらんぽらんは常に落ちこぼれ、あるいは問題児である。存在していることが申し訳なくなってくる。

しかしこの罪悪感・無価値感は、私の中にある偏見が作り出す脳内幻想が生み出すものである。おそらく差別を内面化しているので、ついつい人間の相対的な位置を上か下かで判断しようとしてしまうのではないだろうか。まあ、その幻想の中では自分=「下」、自分以外=「上」なのだけれど。でも実際の位置関係は多元的だと頭ではわかっています…。


肩書きをどう利用するか

以上、私が自分の大学階層上位の肩書きから受けている恩恵・災難について簡単に整理した(愚痴が多くなったことは反省している)。

正直なところ、昔からの友人との仲は学歴で変わったりするものではない(少なくとも現時点では)ので、プライベートでは肩書きはほとんど影響しない。お前がやりたいことをしていて幸せならそれでいいと喜んでくれる人ばかりである。加えて、肩書きなどは日本を一歩出れば、そして学術の業界を一歩出れば、あまり意味をなさないものである。

しかし大人として現在の環境で生活を送るには肩書きを示さなければならない場面が多く、公的な場などで大学階層上位であることを全くないことにはできないし、ないことにしてはいけないと考えるようになった。そんなこともあって大学階層に疑問を抱き、今回、損・得を書き出してみた次第である。まあ「損」の方は「損した」というほどでもない非常に軽い災難だが。

さて、肩書きに対して受動的に考えると上記のような功罪が見えてくるわけだが、一方でこちら側から肩書きにはたらきかける、つまり肩書きを主体的に活用する方法も考えるべきだろう。

そのため、実際の大学階層上位の人間が肩書きを何の目的でどう活かしているか、注意して見ていきたいと思う。例えば、世間の偏見を利用し「どうだ、ナントカ大学の人間だぞ、すごいだろう」という態度で自分の意見や成果を発信する人はそれなりにいるのではないだろうか。私であれば、たまたま恵まれて運良く現在の肩書きにまで成り上がったことを強調し、サクセスストーリーなんかでどこかに売り込むといった感じだろうか、ただし、現在の肩書きを肯定的に捉えられる状況・精神状態であればの話だ。

私は基本的に、いかなる差別も社会を衰退させ、反対に多様性が社会を発展に導くと考えている。当然ながら、日本における大学階層という差別構造についても社会の衰退の要因とみなしている。

ゆえに今後は日本の学歴差別・大学階層といった構造を少しでも変化させる・壊すために、逆説的ではあるが、その差別構造によって特定の意味を与えられている自分の肩書きをどう利用できるか、ということを考えてみたい。

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