見出し画像

なんでも自分が原因と思うなよ

結論は、自分のせいで元養育者は経済・労働に関して大変な目に遭ったと長年思い込んできたが、実はその労働を可能にしていたのも自分だったらしいということ。だが結局そんな苦労に意義はない。以上。

以下は完全に雑文です。


子供のせいで稼げない

「(私)ちゃんが生まれる前は私だって500万くらい稼いでたんだよ」

と元養育者に言われたことがある。単に日本の経済史の話をしているのではないことは明白だ。かといって私を責める目的で言っているわけではなく、収入が低いことで傷ついたプライドを保とうとしての発言だったように思う。

そんなこと言われなくとも、自分が元養育者(以下「Q」)の人生をめちゃくちゃにしてしまったと、10代後半〜20代前半の頃は割と強く信じていた。実際、因果関係としてはそうだと言える。彼女のキャリアも経済状況も精神も、私の存在が原因でめちゃくちゃになったのだと。ただし因果関係はそれだけではない。

子供のおかげで稼いでいる

彼女はフリーランスとしてのキャリアを半ば犠牲にして不本意な労働をやっていた(と思う)。だが逆説的なことに、いくら不本意であろうが稼ぎが足りなかろうが、その労働が可能だったのは、私がいつの頃からか家事を分担していたからであった。2人分の朝ごはんを作って、自分の弁当を用意してから、家を出る前にその人物を優しく起こしてやり、夜は飯炊きか洗い物をしていた。あと洗濯物とか。

特に、22時頃に家に帰って晩御飯を作って片付けたらもう、翌朝(5時半)に準備すべき弁当と宿題について考えないといけないのが非常に苦痛だったのを今でも覚えている。睡眠時間がいつも5時間前後だったことにもイライラしていた。しかも布団に入ってから声を殺して泣いていたのでエネルギーも結構消耗していたと思う。

なぜ布団なのかというと、Qの前でネガティブな感情を表に出すと怒鳴られたり頭を叩かれたり追い出されたりしたからだ。通学路か風呂場か布団の中でしか泣けなかった。Qのように、傷ついていて余裕がない人間は、他人が弱味を見せる行為に嫌悪感を抱きやすいものなのである。

もし周囲の学友たちも自分と似たような状況だったら、もう少し気が楽だったかもしれない。それと、あのころ必死で宿題なんてやらず真面目に本でも読んでおけばもっと自分のためになっただろうと、今でも後悔している。

自分は自分だからだめ1

さて、仮に私の家事がどれだけ下手だったとしても、これはもはや(兼業)主婦の無賃労働と同じ域に入っていたと言える。Qの収入の土台には、私の家事労働もあったのだ。

男性のいない、身体的には女性2人だけで構成される家庭に14年ほどいたので、気づくのが遅くなってしまった。性別を理由に家事を強要されたことが全く無かったのだから仕方がない。だからこそ、私は女子校に通ったことはないのにもかかわらず、性別役割の規範の内面化がそこまで強くは行われなかったと思う。

ただし困るのは、さまざまな問題が、自分の身体の性やジェンダー・アイデンティティ(以下「GI」)に起因するのではなく、自分の存在自体に起因してしまうことだ。これは事実の話ではない。そういう認識から逃れられないことに困っている。性別云々以前に、人間として成立している感じがしないのだ。GIというのは人間が持てるもので、人間未満の私にはGIを持つ余地がない感じがする。別に欲しいわけじゃないので構わないのだが(なので強いて概念に当てはめるならAジェンダーが近いっちゃ近い)。

話が逸れてしまった。

つまり、「自分は女性だから家事をしないといけない」なんて意味不明なことを思ったことはない。そうではなく「自分は自分だから家事をしないといけない」みたいな、別の意味不明な観念を持っていた。なぜなら、助け合おうとか支え合おうという考えを持つような信頼関係が私とQの間には無く(あったのは支配関係)、家計や家事の意義についての説明も不足していたからだ。

ひいては、最初の方で書いた通り、「Qが苦しむのは自分が存在するからだ」という観念も持っていた。

Qも「私やあなたが苦しいのは社会が悪いせいだ」くらい自覚してくれればよかったのだが。まあ、そんな余地すら残さないのが資本主義と家父長制なわけだ。そしてQにはそれに対抗する知性を獲得する機会や余裕が足りなかった。Qは新自由主義と優勢思想を内面化していて、いつも「働かざる者、食うべからず」と言って家事をさせてきたし、病気や体調不良など人間の脆弱な面を見せたがらなかった。それはもうお疲れ様と言うほかない。

自分は自分だからだめ2

とはいえさすがに、冒頭のような金銭を引き合いに出すような言い方ばかりでは、分別のつかない子供だったこちらが、自分の存在を否定的に捉えて自分を責めるようになるのも仕方ない。

他にも例えばQは、私の大学院進学祝いの席を設けておきながら(ええ、なんと大学院に進学できたんですよ!)、その席で「やっと借金を返し終わる」などと親戚に愚痴っていた。負い目が強過ぎた私はつい、「そんな言い方するなら借りなければよかったのに!」と本気で突っ込んでしまった。その場にいる皆から、頭がおかしいやつと思われたに違いない。だが素直に「負い目を感じるから金の話は外でしてくれ」と言ったところで無視されただろう。こちらとしては、金のことを気にするくらいなら祝ってないで節約してほしかったし、私もサラ金にギリギリで返済したばかりのタイミングで先が見えなかったので、ご馳走ではなく食費がほしいところだった。実際そう言ったが取り合ってもらえなかった。金の有無ではなく、このように他者のニーズを無視して、発言や態度を自らの許容範囲内にとどめようとコントロールしてくることこそが問題である。

金に関しては上記のような感じ。それ以外のトラブルが起きれば「気持ち悪い」「謝れ」「なにそれ」「あんたが〇〇しないからでしょ」「〇〇しなさい」などと、物事や感情の詳しい説明を欠いたままとにかく責めてくるのだから、私に自己否定的な思考回路が定着するようになったのも仕方ない。

では本当のところ、なぜQは私と一緒に暮らしていて苦しんでいたのか? 私が悪いのでなければ何のせいなのか? 非正規労働者の待遇が悪いせいか。フリーランスの収入が不安定なせいか。ベーシックインカムが存在しないせいなのか。養育費を払わない私の生物学上の父が悪いのかといえば、それを許してしまう法や、その背景にある、男性による生殖管理を是とする社会通念にも問題があるだろう。

そして、Qや私が無償化された高等教育を受けられなかったことも、確実に関係ある。余談だが「受験にこだわるな、システム上必要な通過点に過ぎないから」などという妄言は、高等教育を無償化してから言ってほしい。まず家族の学歴によって子供が持てるノウハウも違ってくる。学習塾や予備校に行かないと有益な情報を得られないというのも、かなり不公平である。Qが高卒で私は塾に通っていなかったので、ついそう考えてしまったが、この推測は間違っているだろうか? それで公立に挑戦して失敗して私立に入ってしまったから、私やQは無駄な苦労をしたのであるが。そう、こういう苦労は無駄だということだけは強調しておきたい。どんな人間もこんな苦労はするべきでない。

もちろん、たとえ教育システムがより良いものだったとしても、私が虐待を受けたことに変わりはなかった。それでも少しは違う(多分マシな)生活になっただろうと、現時点では言わざるを得ない。

「毒が薄まっていけばいい」だと

教育システムへの恨みを書き過ぎた。話を戻そう。

Qが、大した覚悟もなくエゴで子供を産んだ自分たちの行動を後悔しないのも不思議な話である。さすがにそれは倫理的な最後の砦として残っているのか、そこまで遡及して考えられないのか、まぁどうでもいい。

そもそもQの元養育者やそのまた元養育者も、おかしい人たちだったらしい。この家系は、私の3代前の人物が酒飲みで、製糸工場で働く娘たち(私の祖母)の給金を前借りするような、どうしようもない人間だったと聞く。つまり私の祖母は、アダルトチルドレンの語源「アダルト・チルドレン(チャイルド)・オブ・アルコホーリクス」そのものだったのだ。その上、継母からの過酷ないじめにも耐えていたという。

そんな人物に育てられたQは長子で、下の子供がいたせいで十分に可愛がってもらえなかったようだ。名前で呼びつけられると昔を思い出すので嫌だと、時々言っていたことからも、それは窺われる。しかも一緒に暮らしていた頃、Qは夜中に夢にうなされて「うぎゃああああ!うおああうんぎゃああ!」みたいなこの世のものとは思えない声を上げて、すごい苦しみ方を頻繁にしていた。何の被害のトラウマか知らないが、想像を絶する苦しみを味わって生きてきたのだろうと推察する。その声で起こされてこっちまで恐ろしい思いをするので、一度尋ねてみたことがあるが、覚えていないようだった。それならば敢えてこの話をしない方が本人のためかなと思って以後はその話題を控えるようになった。

また話が逸れた。ひどい家系だという話でした。だから私は理論上は、AC of AC of AC of alcoholic だということになる。そんな判断は何の解決にもならないのだが。

実際に、私がだめな人間なのは家系のせいもあるから仕方ないのだという旨を、Qに向かって主張したことがある。この家系が失敗を繰り返していて、その中で育てたり育てられたりするのがそんなに大変だとQが知っているなら、私を産まなければよかったのに、と当時は思ったのだ。

「毒が薄まっていけばいいと思った」

というのがQの真面目な回答だった。本気かよと驚いてしまった。言っていることは至極もっともだが、その結果が私とQの現状なのだから、説得力が全くないのである。

それとも感謝するべきだろうか。例えば、自分には別の新たな命の面倒を見る能力がないということを私が明確に自覚できるのは、毒が薄まった成果なのかもしれない。あるいは毒が濃縮されすぎて社会一般と乖離しすぎた結果、この家系を反面教師として見るしかなくなったのかもしれない。

何にせよ結局、人間としての時間の適切な過ごし方を示して気づかせてくれたのは、この家系の外の人々だった。

おわりに

本当にまとまりのない雑な書き方になった。大方、睡眠不足で錯乱でもしているのだろう。

とにかく、自分のせいでQの労働状況が大変だったと思い込んできたが、実はその労働を可能にしていたのは自分だったという気づきを書き残しておきたかった。Qや私の苦労・心労は、それほど自らに起因するものではなかったし、そこに大した意義など無いということも。

今は、私なんかいてもいなくてもQは苦しんだのだと思っておくことにする。他人の不幸が100回中100回とも100%自分のせいだなんてことはあり得ないと、もう知っているので。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?