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ミュウツーはなぜ「逆襲」するのか:精神分析で読み解く『ミュウツーの逆襲』

監督:湯山邦彦
脚本:首藤剛志
公開:1998年

① 序論

アニメ『ポケットモンスター』シリーズの主人公がついにサトシから交替し、SNSを中心に話題になっているらしい。
 アニポケはもともと脚本家・首藤剛志の作家性が非常に強いシリーズで、特に彼のかかわった初期シリーズは現代思想や昭和文化を取り込んだ文学的な作風が他の子供向けアニメとは一線を画していたと思う。
 首藤時代の集大成はやはり劇場版第一弾『ミュウツーの逆襲』だろう。本作は国内でも年間順位邦画2位のスマッシュヒットを記録したが、それ以上にとにかく海外でのヒットが凄く、上映館6,000館、観客動員3,000万人、アメリカでは日本映画初の初登場1位など、数々の記録を打ち立てている。シリーズ最高傑作と断ずるファンも多い。

 本論では、そんな『ミュウツーの逆襲』の冒頭20分に着目し、なぜミュウツーが「逆襲」するに至ったのか、精神分析の代表的な権威ジャック・ラカンの理論に沿って読み解きたい。

② 父親による名付け:オイディプスコンプレックスの発生

『ミュウツーの逆襲』では「自己とは何か」というテーマが繰り返し問われる。これはクローンであるが故に自我の形成が不完全なミュウツーの精神状態を反映している。彼の不安定な自我は映画冒頭の誕生の場面に理由を見出すことができる。

 まず、胎児のミュウツーは母胎代わりのガラス管に入っている。母胎に入った胎児というのは自分と母親の区別がついておらず、母親との一体感に非常な充足感を覚えている。実際にミュウツーもアイツー(主格IのクローンであるためI-2)と呼ばれる女性と思考を共有しており、母性的な性質を持つアイツーとの結合関係に満足している様子が見て取れる。
 しかし、胎児はいつか母親から切り離されなければならない。ミュウツーの場合、まずはアイツーの消滅を経験する。その時点で彼は母性との一体感を失い、自我が目覚める。「私は何者か」という問いは、彼が「個」として自己認識し始めたが故に生じるものである。

 続いて、ミュウツーはガラス管からの脱出を経験する。これは勿論母胎からの出産を意味する。この場面で「父親」による「名付け」が行われている。
 ラカンの理論によれば、自我の確立には父親による名付けが不可欠である。自己認識が不完全な幼児はまだ自己と他者との境界線が曖昧であり、主体としての自覚がない。しかし、父親に名前を宣告されることにより、自己と他者は別の存在であるという現実を明確に把握する。この場合の「父親」はあくまで役割としての父親という意味なので、厳密に父である必要はない。

 肝心な点は、父親の名付けによって自己と他者の一体感を喪失した子供が胎児のころに味わっていた充足感を二度と取り戻せないと理解してしまうことであり、これによって、①自分と母親を切り離した父親への敵意=「オイディプスコンプレックス」、②切り離されてしまった母親との再結合を望む感情=「マザーコンプレックス」が発生するのである。

 『ミュウツーの逆襲』の物語もこの二つのコンプレックスが急進力となっている。生まれ落ちたミュウツーは、遺伝子工学によって彼を作り出した「父親」フジ博士により「お前はミュウツー」と名前を告げられる。この時点で彼はアイツーとの再結合の可能性を完全に失うことになり、アイデンティティクライシスに陥る。だからこそ、タイトルの「逆襲」が自己とアイツーを切り離した父親=人類への「逆襲」というオイディプスコンプレックス的表現として機能するのである。
 また、彼のマザーコンプレックスはやや変則的な形で表面化している。彼は遺伝子工学により作られたクローンであるため、母親についても遺伝子的に解釈していると思われる。そのため、彼の目的はオリジナルであるミュウを倒し、自らがオリジナルに成り代わることとなる。彼が本当に再結合を果たしたい「母親」は、アイツーをさらに飛び越えた「オリジナルという概念」そのものなのかもしれない。

 なお、「ミュウツー」という呼称を最初に使ったのはフジ博士ではなくアイツーであるが、アイツーの呼びかけとフジ博士の名付けでは意味合いが全く異なっている点も指摘しておきたい。

③ もう一つのアイデンティティクライシス:石化する主人公

前章で述べた通り、ミュウツーは自らのオイディプスコンプレックスを逆襲のモチベーションとしており、これが「自己とは何か」という映画全体の問いにもなっている。しかし、ミュウツーのアイデンティティクライシスという巨大なテーマの影で、もう一人の人物もアイデンティティクライシスに陥っている。その人物こそ主人公のサトシである。

 サトシはポケモントレーナーとしてポケモンを戦わせることをアイデンティティとする人物である。映画でも彼は当初「最強のポケモントレーナーとバトルをする」という目的で動いていた。しかし、映画終盤になると彼のモチベーションは「バトルをすること」から「バトルを止めること」に反転してしまう。
 その原因は彼の普段の自己認識の不完全性にある。普段の彼は「ポケモンを戦わせる」という立場だが、その行為に内包される残酷性に気がついていないと思われる。彼がポケモンバトルの残酷性に気がついたのはおそらくミュウツーの攻撃により上空へと飛ばされたタイミングだろう。ここで彼はポケモンたちがトレーナーの指示を聞かず自らの意志でバトルを継続し、ボロボロに傷ついていく姿を上から俯瞰して目撃してしまうのである。
 モチベーションが「バトルをすること」から「バトルを止めること」に反転した時点で、彼はポケモントレーナーとしてのアイデンティティを喪失する。そのためミュウツーとミュウによるもっとも激しいバトルの只中に割りこみ、彼らの闘争を完全に終わらせてしまった時点で機能不全に陥り、石化の表現につながるのである。

 なお、ポケモンたちの涙で石化したサトシが蘇生する最終盤は、冒頭の「悲しみで涙を流す生物は人間だけ」という台詞を伏線として回収した上で、「クローンも人権ある一生命」という今作の解答を象徴する名シーンである。

 本作において、ミュウツーのアイデンティティクライシスは一旦解消されてラストを迎える。しかし、もう一つのアイデンティティクライシスである「ポケモントレーナーの存在意義」についての問いには明確な回答が与えられない(ラストシーンでサトシの記憶がリセットされ彼の葛藤がうやむやになってしまう)。次回の映画でアンサーが欲しかったところだが、『ルギア爆誕』がその使命を果たした映画だとは言い難い、というのが私の意見である。

④ まとめ

【ミュウツー】名付けによるコンプレックスの生成=「逆襲」のモチベーション
【サトシ】立場の反転によるアイデンティティクライシス=「石化」の表現

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