私たちは嫌われる自由があるということ。HSP、発達障害、ACは他人にまったく関係ない。

他人にまったく関係ない。はちょっと言い過ぎだけど、結局、「拗らせる生きづらさ」は、内的と外的に分かれる。

そして、みな個人の「嫉妬」=「不足分」を個人で埋められると余裕ができ人に優しくできる。そんな構図が見えてきた。

それを「自己受容」と呼ぶ。

自己肯定感って言葉が先走り、なんだか自己理解に邪魔してるんだよね。むしろ、この言葉は今やよくない意味を含みすぎているような気がする。無色の毒だ。

「あいつが嫌い」「あいつが苦手」はむしろ生きててOKなのだ。

気遣いのできる人は、「あの人のここ」「あぁいう言い方」ともっと具体的に言える人だろう。また、個人攻撃には、その言動行動に対して視点を移し、もっと大きな括りで言える人だろう。

これが、通常運転。

もしも、仲のいい人なら、もっとダイレクトに自分の感情を出して、鬱憤を晴らす事で自己理解なんて距離もあるけど、最近その空気が読めないから、結局他人に悪口として伝達したり、そもそも悪口に取られ距離を置かれる人も見る。

はたまた、巷ではまっとうそうだけど、個人対個人になると非人道的な行動をとる(ま、ただのわがままと言える)人も東京では結構いる。

自分構築が成長にはまず大事だが、そんなのが完全だろうが不完全だろうが、社会に解き放たれたら、私たちは第三者の目というモラルで集団は均等化しているシステムだと思えてきた。

「今私の空間だから好きかってして良いのよ」

それが、違うでしょと叩かれて気づく人、自分の空間なのに遠慮する人、そもそもわからない人。そんなこんなで近隣世界はできているようだ。

人と人がいれば、テリトリーの取り合いは小さくも日々ある。ぶつかって当然。つまり、小さい嫌いは山ほどある。嫌われて当然。だから、人は段階的人馴染もうとする。田舎だからって全部一緒じゃない、違って当然。違わない方がおかしい。風土や気候からくる性格のような特徴が似ているだけで、その他の個性も絶対存在するし、そこに「神経」「気質」まできたら、、、

おや?個性の存在率の方が低くなりそう?いや、それでも個性は消えないのが我々祖先のホモサピエンスという想像の種族な訳だし。

私たちが個性的である以上嫌われて当然なのだ。だけど、「嫌われる」でダメージを受けるレベルや絶縁のレベルがある。それをわかっていれば、とりあえず「HSP、発達障害、AC」って括りは外せる気がしてきた。

外界とのルールは今まで通りいたって超絶シンプルルールだった。
(つまり、内界の自分との折り合いに100ページくらい必要なんだ。。。)

もちろん、障害と認定をもらう事で生きやすくなる人もいると思うのんで、それは最終医者の判断としても、そこに行くまで決意は個人の判断でいいと思う。

死ぬ事以外はかすり傷。


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