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食べ物の好き嫌いが多い人は〇〇の好き嫌いも多い

エッセイやブログを書くにあたって技術というものが存在する。文章の構成がその一つだし、言葉の言い回しもその一つだ。やっぱり公開する以上は誰かに読んでもらいたいし、褒めてもらいたい。ひねくれようが角度を変えて穿った形で世間に対抗しようが本質は変わらない。だって人間だもの。

文章を書くうえでの技術の一つにタイトルの付け方というのがある。タイトルは内容を表す名前でなくてはいけない。つまり作品の名前だ。でも技術という観点から考えると、内容を表す言葉であると同時に目を引くタイトルでなければならない。無限に並ぶ本棚の中で読者が手に取ってもらいたくなるようなタイトルでないといけない。具体的には次の通りだ。

・具体的な数字を提示する(5選、3つの方法、7つの秘訣)
・方法、徹底解説、無料
・読者を煽る(まだ知らないの?、みんなやってる)

これはほんの一部にしか過ぎないが、今思いつくだけでもこれぐらいある。
僕も時々こういったテクニックを使っている。



上記のテクニックはあくまでも読者に目を引くためのタイトルであり、SEOを意識したタイトルとなると文字数を28字ぐらいにしたほうがいいとかそういうのがある。


で、この記事のタイトル、「食べ物の好き嫌いが多い人は〇〇の好き嫌いも多い」というのも読者の目を引くためのタイトルである。〇〇と書くことで読者は気になって気になって〇〇の真相を知るべく記事を読んでみようとなる。

しかし、僕はこの手の記事のタイトルの付け方が嫌いだ。自分で多用していながらこんなことを言うのは卑怯だがひどく嫌いだ。

その理由は「せこい」という言葉に尽きる。どうにもこうにもせこくてならない。意識してネット記事のタイトルに目を向けてみるとこの手のタイトルは煩雑している。いかにして読者を騙して自分のページへと誘うかで必死であり、その様が滑稽でもある。LINEニュースなんか特にひどくてタイトルで釣られて読んでみれば本当にクソしょうもない記事だったりする。自分が同じ手法を使うことで同じ土俵に立つということを意味するのでできるだけ避けたい。

しかしながら、そのレースから降りられない自分もいる。
だって文章を書いている以上、誰かに読まれたいし、誰かに褒められたい。ひねくれようが角度を変えて穿った形で世間に対抗しようが本質は変わらない。だって人間だもの、というわけだ。



ようやく長い導入文を経て記事タイトルである本題に入る。


「食べ物の好き嫌いが多い人は〇〇の好き嫌いも多い」

この〇〇が意味するものはズバリ「人間」である。

食べ物の好き嫌いと人間の好き嫌いというのはとても似ているのではないかということだ。「わたしはニンジン嫌いなんだけど、あの人ってニンジンっぽいから嫌い!!」とかそういった話ではない。

そもそも食べ物の好き嫌いが激しい人は人間の好き嫌いも激しいよねっていうことだ。

ちなみに僕は、割となんでも食べれるほうだ。

野菜も食べるし、肉も魚も食べる。何料理であろうと出されたものは食べるし、嫌いなものはない。でも中には苦手なものもある。だからといって全く食べられないわけではなくて食べようと思えば食べられる。その中で好きなものは肉とビールでこの2つは毎日食べても飽きない。

これが交友関係にも当てはまる。全く話したくない人、関わりたくない人というのは周りに比べれば少ない方だと思う。そつなく誰とでも喋れるタイプではある。でもその中でも親密な人というのは数少なく絞り込まれている。これって食生活とも似ているなと思った。

中学の時に食べ物の好き嫌いが激しい友人がいたのだが、そいつは人間の好き嫌いも激しかった。嫌いな奴には目の前で嫌いと罵るぐらいだった。

これはあくまでも一例に過ぎないし、食生活と交友関係の因果関係はわからないが、自分の嫌いなものを体内に入れるということは、本人にとってはかなりの負荷がかかっているに違いない。嫌いなものを体内に取り入れ、文字通り「血となり肉となる」のだから許容するのはかなりのストレスだ。

それと同じく嫌いな他人を受け入れるということは相手の見た目や考え方を、脳で心で受け入れる作業になるので同じく許容するにはかなりのストレスを生じる。

誰とでもうまくやる必要はないし、全てを受け入れる必要はない。でも相手を無闇に批判する必要もないと思う。ニンジンが赤いことを認めて、ブロッコリーのモサモサ感を認めてやることが大切だ。それが好きであろうと嫌いであろうと。


最近2歳の息子がうまく食事をしてくれない。まさにイヤイヤ期で好き嫌いが激しくなる頃だ。

多様性を認めるということはそんなに難しいことじゃない。少しずついろんなことを教えて僕も勉強したいと思った。

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