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文章を書く前の心境はとても恐い

文章を書く前の心境というととてもドキドキする。
これは私だけであろうか。

なにもたいそうなことを書く気など毛頭ない。しかしこの真っ白なテキストを見ていざ書くという行為に入る瞬間はとてもドキドキする。
このドキドキがワクワクを含んだ時もあるのだが、大抵は不安という意味を含んだドキドキである。そわそわに近い感じ。


真っ白な、なにもないところに書き始めるという行為は、画家や絵描きの人にも同じことが言える。となるとやはり画家にも同じような感覚があるのだろうか。
なんだってそうか。絵描きだろうと写真家だろうと、作品を生み出すということはなにもないところからのスタートとなる。頭の中で構成や書きたいことをこねくり回して、出来るだけ抽象を具体化していてもそれを机上に落とし込むときは自分の手から離れる。頭の中では完全なる自分だけのものだが、机上に落とすことにより世界に放たれる。そこまで肩肘張って文章を書いているわけではないのだが事実としてそうなのだから仕方がない。

また、文章を書く上で一番恐いと思えるのは、文章というのが身近にあふれているということだ。
識字率99%を超える日本では文章は誰にとっても身近な存在である。誰もが読むことも書くこともできる。なのでその文章の良し悪しという判断を誰もができる。例えばこれが絵であれば、義務教育で習うのは図工や美術といった限られた時間だ。得意不得意があっても仕方がないという感覚が自分にはある。
しかし、文章ならば小学一年生から読み書きを習い、国語だけではなく算数、理科、社会とどの教科でも文章というものに触れる。当然読む人の目も肥えているし、書き手のライバルと言えば日本国民全員だ。そに付け加え、書くという行為は道具のせいにできない。こうしてPCで文字を打っているのだが、このPCだから文章がすらすらとうまく書けないという言い訳ができない。
これが習字ならこの硯が良くないとか、筆が良くないとか技術と道具の掛け合わせによって作品の出来が変わる。誰でも書ける環境で誰でも触れることができる文章だから言い訳ができない。

しかしながら、ここにこそ文章の面白さがある。誰にとっても身近な存在で始めようと思えばほぼ無料で始められる。
PCがなくても家で広告の裏に殴り書きをするだけでも文章が成り立つのだ。それだけで思いを自分以外の世界に落とすことができるし、作品として成り立つ。そしてそれは大人、子ども年齢を問わず誰にでも平等に書ける。そこにはプロもアマチュアもない。そしてそれをネットに落とし込めることにより世界はさらに広がった。このnoteだってまさしくいい例だ。誰にだって平等である。
こんな風に考えると書くことが恐いという感情が少しやわらいだ。
誰にでも平等というのはそれは私にとっても等しく与えられた権利で、それを存分に味わいたいと思う。

文章を書く前のドキドキが少しワクワクに近づいた。

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