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くだらない話がしたい

最近なんだか世間が騒がしい。


エッセイを書く上で自分の中でひとつ決めていることがある。
それは時事的な内容を書かないことだ。タイムリーな情報を書いてしまうと後から「読めないもの」となってしまう。その文章に古さを感じてしまう。そして何よりもタイムリーなことを書くと日記になってしまう。その日あったことを書き留めるのが日記であり、その役目は日記に任してしまった方がいい。となるとエッセイの役目は数年経った時も、共感できたり、疑問を投げかけられるような文章の方が好ましい。
しかしどんなに気をつけていようとも少なからずの鮮度は失われると思う。時代が進化してこうしてキーを叩くという行為すら古くなってしまうだろうから。


それらを踏まえた上で冒頭に戻るのだが、なんだか世間が騒がしい。
国際問題に、国内の事件、芸能ニュース。
それらのニュースが起こるたびに世間様は賛否の立場をとり、騒がしい。炎上なんて言葉はそれらの核を占めている。煽る人間がいるから煽られる人間がいるし、感受性が高い人間は過敏に反応して精神を持っていかれる。どうやら自分も感受性が高い人間のようでいちいちのニュースにひどく疲れている。感受性が高いというとなんだか優しくていいやつに聞こえるから、自分で言うのは憚(はばか)られるのだけれど。



人は弱いものでネガティブニュースが好物なのだ。そしてネガティブニュースほど短絡的なものはない。頭で考えることなく反射的に批判できる。そしてそれを打ちのめすことに快感を覚える。ソシャゲで言うスポットに集まってよってたかってボスを倒すようなものだ。わかりやすい。
あるいは自分のポジションに希少性をもつためにあえて批判を批判したりする。どちらにしろ言えるのが、そんなにいちいちのポジションを取りたいのかと思う。そしてそれを言いたいのかと思う。グダグダ言ってねえで自分のやるべき課題を片付ける方がよっぽど生産的だ。


かく言う自分もこの一連のメディアと世間様に対しての批判という立場をとっているのは言うまでもない。

何が言いたいかと言うと、非生産的な立場であればどうせならくだらないことを言った方が楽しい。
とんでもなく、くだらないことを大真面目に真剣に考えたい。



例えばだ。

例えば、そうだな。

こんな時いい例えが出るのが頭のいいエッセイストなのだけれどなかなか思いつかないのが三流のエッセイストだ。


一流と三流。この違いは何かと聞かれると、答えは決まっている。
一流はさらなる高みを目指しているのに対して、三流は「三流でも三流なりに」とか言ってのけちゃうところだ。自分のポジションを正当化するためにむしろ三流の方がいいと言ってしまうところだ。


それこそが非生産的以外の何物でもない。けれどそこに温かさを感じ人間味があるなぁとか思ってしまう僕は言わずもがな三流である。


最近は朝に飴を食べることが習慣となっている。心が落ち着きリラックスできる感じがする。医学的なことはわからないが、自分がそう感じているのなら間違いないと思う。

今日は高校時代の友人と飲みに行く。
くだらない話と生産的な話、未来の話ができたらいいなと思う。


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