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努力について

先日、とても嬉しいことがあった。

ここ数年、酷くなっていた首、肩の凝りの解消が見えてきたのだ。


最初に違和感を感じたのが高校二年でそれからは年齢を重ねるごとに酷くなっていった。しばらく放っておいたのだが何年か前に寝違えたような痛みが取れず整形外科にて診断。レントゲンの結果、首の骨が曲がっているとのこと。小さい頃に何か首を痛めてその結果、年齢を重ねたことにより骨が硬くなって無理が生じている。そんなことを医師から伝えられた。僕にはそんな記憶がなかった。とりあえずは経過を診て痛くなったら、その都度治療に通う。そんな日々が続いた。それが二十歳をすぎ、大人になるにつれその症状の頻度が多くなってきた。時々運動やストレッチをするも改善されなかった。

最近は特にこの痛みが酷く、このままじゃ日常生活にまで影響するのでは無いかと思うようになった。これはまずいと思い、治療法を変えた。病院を何度か変え経過を見てみるもあまり良くならなかった。そんな時、腰痛持ちの友達からカイロプラクティックを紹介された。

体がどんな状態かを診てもらい施術をしてもらった。やはり骨が曲がっているらしい。一時間みっちり診てもらい、帰るときには凝りが解消されてとても楽になった。
先生の診断によると骨が曲がっている原因というのは普段からの姿勢が悪いということだった。

思い当たる節がある。

小さい頃から寝ながらテレビを見ていたり、ケータイを持つようになってからは下を見る回数が増えた。スマホ首というやつだ。(スマフォ首、もしくはケータイ首だ!)
なので僕の首、背骨は縦に曲がったり横に曲がったりしてその負担が首、肩にかかり悪さをしているとのこと。
今回、施術をして今は楽だが普段からいい状態の姿勢を保つようにしなければならない。帰り際、先生にそう言われた。

そんなこんなで、今キーボードをポチポチと叩きながらも背筋をピンっと伸ばしている。
そして、この姿勢を良くするというのはとても難しい。
当然長年、体に染み付いた姿勢の方が楽で、気を緩めるとすぐに背中が丸くなる。この背筋を良くするというのは思っていたより、背筋を使うのだ。普段、いかに背筋を使っていなかったのかが身にしみて分かる。

しかし、それを怠るわけにはいかない。せっかく良い先生に恵まれて解消に向かっているのだから僕も努力しなければと思った。

僕は「努力」という言葉が好きでは無いのだがいつしか、頭の中に「努力」という二文字が浮かんでいた。
はて。この感覚はなんだろうか。努力について考えてみる。
努力とは歯を食いしばって「このクソー、このクソー。」と言いながら行うことのような気がするのだ。てんで根性がない僕には「努力」という言葉を聞くと「うわぇ」ってなってしまう。
それでも時々、「君野くんは良く努力をしているよな」と言われることがあった。僕には努力をしているという意識がなかったのにも関わらず周りからしたら努力をしていたみたいだ。

どうやらこの「努力」という言葉がいけないのではないか。苦節何年、苦虫を噛みながら。なんだかとてもヘヴィーな表現に思えるのだ。

この痛みを解消するために背筋を伸ばすという行為は。これは先生が僕に施術をしてくれた行為に対しての僕からの歩み寄りなのだ。
先生はやれることをやって、僕も自分で治すという歩み寄り。
すなわち「努力≒歩み寄り」なのだ。

何か目的や目標を達成するためにこちらから歩み寄る。こちらから歩み寄るとその目標とやらも「そろそろ私からも出向いてやろうかな」と近づいてくれる。
そんな気がしているのだ。

しかし、その歩み寄る行為も時に厳しい練習や、苦労は絶えないと思う。
だから僕はこの「歩み寄る」という行為に「あゆみ」と名前をつけてやろうと思う。
するとどうだろう。途端にカジュアルになったではないか。

何か、目標を見つけた時。
達成するためには毎日これとこれをしなければならない。疲れてどうしようもないけど、目標に向かってやらなければならない。
そんな時、歯をくいしばるのではなく、肩肘張るでもなく「あゆで〜す(往年のモノマネ風)」なんて挨拶をしながら軽い気持ちで歩み寄ってやろうと思う。


次回は「チキンハートについて」


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