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「人間の知恵の否定」 わら一本の革命から考えること

こんにちは! だいごです。

今回は、福岡正信さんが書いた「わら一本の革命」を読んでいろいろ感じたことがあったので、noteに書き留めておこうと思います。

「わら一本の革命」と聞いて、農業の話? と思う方もいらっしゃるかもしれません。

うん。そうです。

この本には自然農と呼ばれる農業手法?をもとに、筆者が実践してきたノウハウとその道筋が書かれています。

しかし、この本を読んで約20ページほどで、この本に書かれていることは農業だけでなく、私が関わっている教育にも通ずるということに気づきました。

・農業に興味のある人
・子育てをどうしようかなと悩んでいる人
・教育に携わるすべての方々

ぜひ、最後まで読んでいただけると幸いです!

読もうと思ったきっかけ

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なぜ私がこの本を読むことになったのかというと…


もちろん、農業に興味があったからだ。
(正しくは農業というよりも、家庭菜園?)


現代では「農業」とか「農学」とか、すごく仰々しい言葉になっているけど、そもそも、昔は国民のほとんどが庭先で食べる野菜を育てていたはず。

それが今では

野菜はお店で買うもの。

になっている。

それって何か不思議ではないだろうか?

野菜を育てるのはそれなりに大変だけど、ジャガイモなんかは適切な場所に適切に植えればちゃんと育つ。

特別なスキルがいるわけではない。

今でもうちの田舎の人たちの家の庭先では、自分たちで食べる野菜は自分たちで育てているが、それでも育てる人は減ったのだろう。

都会だとなおさらだ。

なぜ、人は農という生業をやめてしまったのだろうか?

最近、そんなことを考えていたからこそ、この本を読もうと思ったわけです。

100億人時代の食糧生産について考える

最近、農業について改めて考えるようになったのはアマゾンプライムで一つのドキュメンタリーを見たこともきっかけの一つだ。

この動画の中では、これから来る100億人時代の食糧生産について淡々と現状が述べられている。

昆虫食や植物工場、人工肉などといったさまざまな視点から食糧生産について触れているが、1番印象に残ったのは大規模農業と経済システムから生み出される貧困の問題だった。


ある貧困地域では、農業はそこに住む人たちの食糧を手に入れるための手段だった。

ところが、ハーバーボッシュ法の開発により、これまでできなかった空気中の窒素を窒素肥料として利用可能になってから、

マルサスの人口論に対し、大規模農業というかたちで抗えるようになった。

そして、次第に大規模農業家たちは、その広大な土地を確保するために、貧困地域の人々からその貴重な土地を奪っていった。

すると、貧困地域の人たちは、これまで自分たちで作っていた食糧をわざわざお金を出して買わなければならなくなってしまう。

その人たちが稼げるお金はほんのわずか。

必然的に飢餓などの貧困を招く。

肥料を用いた大規模農業は、マルサスの人口論への最適解であったはずだったのだが、いつのまにかそれが現代の課題へとすり替わってしまったのだ。

もともとその土地で食糧を採集しながら生きていた人たちから、大規模農業家は貴重な土地とノウハウを奪ってしまったのだ。


100億人をまかなうための食糧生産の最適解は、おそらく昆虫食だったり、植物工場だったり、人工肉だったりではない。

自分たちの食糧を自分の家や町でつくり、それを消費して次につなげる循環をつくることだ。


周りを見渡せばすぐに目に入ると思うが(田舎限定?)、使われていない土地はたくさんある。

そこの一つ一つに、食べられる植物を少しでも植えれば…

食糧生産の問題は少しでも解決できるのではないだろうか。

大規模農業が、世界の国家を繁栄させたのは事実であるが、それがうまくいったのは少なくとも初期の段階だけ。

経済が発達すればするほど、農業によって生み出された食糧は経済力のある地域へと流れていく。そして、そこで余ったものは廃棄される。不可逆反応だ。

栄養が足りなくなった土地は痩せほそり、エネルギーを使った高温高圧の下で、空気から肥料が作られ、それが食料となり、また流出する。そんな、一方向的な流れを作り出したのが、現代の大規模農業の成果なのである。

特に今年度は、特に温暖な気候で野菜がたくさん作られすぎたという。
廃棄されている野菜は、大規模とは言わずとも現代農業によって生み出された弊害と見ることもできるのだ。

こんなことをふわふわと考えていた文脈で読んだのが、今回の「わら一本の革命」だ。

自然農法とは?

農薬や人糞肥料・化学肥料を⼀切使⽤せずに、枯れ草や藁などで堆肥を作って⽥畑に還元し、⾃然界の⼟壌と同じ⽣命⼒溢れる⼟を作り出し、⾃然の仕組みを上⼿に再現した農産物⽣産⽅法(Wikipediaより)

つまり、育てる農作物も自然の一部なんだから自然の力を最大限引き出して農業をすれば、持続可能的に野菜を育てていけるよ。ってことだ。


自然の生態系の中にはちゃんと土の中に肥料をつくるしくみがちゃんと備わっている。

例えば、マメ科植物と共生する根粒菌だ。

マメ科植物(例えば、カラスノエンドウなど)の根っこを見るとつぶつぶしたそれこそマメみたいなのがくっついている。これが根粒菌の住む根粒だ。

根粒菌は、空気中の窒素を常温常圧下で、植物が利用できる肥料のようなものに変化させてくれる。

そして、その窒素がマメ科植物を通じて生態系に供給される。
だからこそ、自然にある植物たちは肥料なしで繁茂することができるのである。

もちろん生態系を豊かにする役割を持つのは、根粒菌だけではない。

さらに多くの生物たちが複雑に絡み合って生態系を維持している。

これらの仕組みをうまく活用することが自然農法のやり方である。(多分)

人間の知恵を一つずつ否定していく

ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だと思っている。

そう考えた著者は、当時おこなわれていた農業技術を一つ一つ否定していくことから始めたそうだ。

例えば、耕すとか、雑草をとるとか、肥料を与えるとか。

これは現在、農業に携わっている人にとって非常に難しい問題なのだろうと思う。現代農業こそが良い農業だと初めからそう教えられた人たちにとって、その教えられた当たり前のことを否定することは、かなり勇気がいる。

だって、失敗するかもしれないから。

失敗すれば、生活が苦しくなる。危ない橋を渡る必要はない。だから失敗しないように、教えられた方法を疑わずに守ろうとするのだ。


僕は、農業で生計を立てているわけでもないので、現代農業を真っ向から否定するつもりは毛頭ない。

しかし、これは教育にも同じことが言えるのではないかと思ったのだ。

今、教育界ではアクティブラーニングだの、探究活動だの、学校での学びを改革する動きが一つのブームになっている。

そのブームの意義は、予測不可能な変化の激しい世の中を生き抜くために必要な力を子どもたちに身につけてもらうためだ。

そのためにいろんな実践が、全国の学校でおこなわれている。
私の学校でも同じことを現在進行形でやろうとしている。

しかし、一度立ち止まって考える必要もあるのかもしれない。
ありったけの教育手法を寄せ集めた教育こそ、最高の教育なのだろうか?

これは本書の中で触れられていたことであるが、本来「音楽」は子どもが誰かから教わるものではない。

子ども自身が感じる音のつながりそのものが「音楽」なのである。

うまく歌えるとか、ピアノが弾けるとか、
それはまわりの大人が後から余計に付け足したものなのではないだろうか?

本来、必要のないところに〇〇教育を付け足していって、立派な教育ができたと自己満足に陥っているだけなのではないだろうか?

教育しなければならない状況を、自分たちで作ってしまっているのではないだろうか?

自然農法が究極的に正しい農法だとは思ってはいないが、この著者のように、これまでの人間の知恵を一つずつ否定していくことは少なからずどんな分野においても必要なことだと感じた。

放任ではない「自然」

農業では、人が品種改良した植物を扱うことになる。
それをそのまま自然の中で育てようとしても、うまく育つ保証はない。

人が育てる前提としてそれらの植物が生み出されたからだ。

植えっぱなしにしたままで、自然というのは間違っている。
それは放任なのである。

だからこそ、人が植物の成長を援助する必要がある。

それは教育も一緒だと感じた。

特に私は高校で教えているが、中にはいろんな境遇をもつ子どもたちがいる。

〇〇教育といって、大人の勝手を押し付けるのではなく、どうやったら、その子本来の力を発揮できるのか? と引き出す教育が理想だ。

だからこそ、これまでの教育の知恵を一つ一つ否定していくことが必要なのだと思う。

放任ではない「自然」な教育とは何なのか。(そもそも教育という言葉が正しいのか?)

そんなことを考えさせられる一冊でした。

本の最後らへんは宗教ちっくな内容も含まれておりますので、実際に読む場合はそのへんも考慮しながら読まれてください。(個人的には最初の20〜30ページまでくらいで十分って感じでした笑)

これも読んでみたい。


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