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真田丸第20話について

真田丸第20話です。秀吉や徳川に逆らえなくなった真田家は、徳川の姪である稲姫(家康の養女となり、正式には家康の娘から)からの婚姻を迫られ、真田家の行く末を案じた長男の真田信幸は今の正妻である「こう」と離縁し、「稲」と結婚する決意を固めました。

真田昌幸は、「これ、やめるかぁ?」とか、のんきなことを言いますし(絶対自分のせいにされたくないからですよね 笑)、母親の「薫」をはじめ、祖母の「とり」まで反対(今の感覚なら当然ですよね)され、実は一番辛いのは、(少なくともドラマを観ている限りは)「こう」を愛していた信幸で、信幸にとっては誠に辛い決断でしたが、今この段階で徳川との縁談を断れば、真田の将来はないと確信していたため、断腸の思いで「こう」に離縁を願い出、「こう」も「お考えがあってのことでしょうし」と素直に受け入れしました。

ところが、稲の輿入れの夜、稲が寒がっているので、侍女に何か羽織るものを頼もうとして、見かけた侍女に声をかけたところ....

こう「薫様のお情けにより、こちらでご厄介になることに...」と....

いくら何でもあり得ませぬ!(笑)

と、信幸も言ってましたが、観ている自分が一番そう思いました(笑)。これって完全に視聴者対策ですよね😅。信幸を悪者にしないための、三谷さんらしい脚本です😉

一方、大阪(京都?)では事件が起こっていました。

城の白壁に高齢の秀吉に子供が授かったことを揶揄する落書が書かれていたのです。この話だけであれば、門番に厳重注意で済む程度の話でしたが、間が悪いことに秀吉の耳に入ってしまいます。それまでの秀吉であれば、意に介さないのですが、この時は違ってました。つまり、

痛いところを突かれたのです。

要は「茶々と秀吉の子供は秀吉の子供ではないのではないか」という意味のことが書かれていたので、秀吉は怒った訳です。何故怒るのか、それは…

茶々のお腹の中の子は秀吉の子ではなかったから、に他なりません

ドラマではぼやかされてましたが、そうでなければ、たかが落書き如きであんなに怒る理由がありません。そして、史実でもどうも本当みたいなのです。秀吉は「捨」(後の鶴松)の後に朝鮮出兵で秀吉が九州に行っている間に「拾」(後の秀頼)も茶々との間に授かりますが、この「拾」もどうも秀吉の実子ではないみたいです。秀吉は昔から大の女好きで、あの信長も秀吉の浮気に悩む寧に激励の書状を送っています。しかし、子供は長浜城主時代に6歳で夭折した石松丸秀勝と女の子以外は子がなく、大阪城にも16人ほどの側室がいたのですが、一人も秀吉の子供を産むことは出来ませんでした。このことから、秀吉が34歳頃に出来た石松丸秀勝や女の子はともかく、この54歳頃の秀吉はどうも生殖能力に問題があったと推測せざるを得ません。

話は変わって、壁の落書きの調査を三成から命ぜられた平野長泰と真田信繁は、壁の落書きが消し炭で書かれていることから、計画的な犯行であること、石垣から壁まで高さがあり、はしごも用意したであろうこと、一人ではなく複数での犯行であろう、ということまで推理しています。なぜ単独犯行でないのかは、高さのある壁を不安定なはしごに登って、曇り空の月明かりもない日に左手にたいまつを持って見回りが来ない時間帯を見計らって落書きをするのは現実的でないからです。ここは、およそ大河ドラマらしからぬ、古畑任三郎のような感じで良いですね!

加えて、江戸時代のように誰もが寺子屋で読み書きを習った時代ではなく、戦国時代で生きるのに必死な時代ですので、字を書ける人間はかなり限られてくると思います。落書を書く人間はお坊さんや武士、貴族、字を書く必要がある商人などある程度限られてくると思いますね。ちなみに落首は、平安時代の始め頃から貴族階級の間で既に広まっており、確執のある官僚同士の昇任や栄転をめぐる政争道具として用いられてきた歴史があります。

長くなりそうなんで、今回はこの辺で...😅

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