名前を付けたがる癖

僕には子供のころから、説明しづらい生きにくさがあった。

空気を読みすぎて、一周回って空気読めない発言をしてみたり。

人の顔色をうかがいすぎて、言いたいことが何なのかさえ見失う。

人の癪に障る物言いが得意で、口喧嘩では勝てない男子に殴られたこともある。

集団行動が本当は苦手で、でもその中に自分がいないのはもっと嫌で。

整理整頓が苦手で、時間の管理が苦痛で仕方ない。

こんな色々を「性格」で言い終えるのは、腑に落ちない。

近頃では、インターネットを検索すればなんにでも名前が付く。

こんなに片づけられないのは「ADHD」だからだ。

悲しい映画や本を読んで、感情移入しすぎて寝込んでしまうのは「HSP」だからだ。

もしかしたら「新型うつ病」ってやつかもしれん。

その説明文に、自分との共通点を探して。

自分の性格のせいじゃない。どうしようもないんだ。

なんてホッとしてみたりする。

安心して「自分はこんなだからしかたない」なんて、自分自身に言い訳をする。

そんなことにもう何年も時間を費やしている。

気が付いたんですけどね。

それを知って、何になるんだ。

「自分を知る」という意味で、あってもいい作業かもしれないけれど。

言い訳にして、そこに立ち止まるなら。

そんな名前に意味なんてないのだ。

正式な神経の病なら、しかるべき治療を取ればいい。

「性質」としての名前なら、この生きにくさを変える参考にすればいい。

名前を付けて、なんとなく安心して。

「私こんなだから。仕方ないんだ。」

なんてな。

欲しい答えだけを見て。

聞きにくいことに耳をふさぐ。

書いてて自分に、腹立ってきたけど。

誰かがどうにかしてくれる人生の時間は、とっくに終わっていたのに。

誰かに「大丈夫」「仕方ないよ」「頑張ってるじゃん」とか言ってほしくて。

他人に期待をして、勝手に不満がる。

変わらない自分自身にを守るために、もっともらしいつぶやきをして。

吐き出す言葉は嘘ではない。けれど、行動には自信もない。

心と体がいつまでたってもばらばらだ。

思い通りにいかないことが増えてくる。

そもそも思い通りをどこに求めているのか。

子供のころには大人になれば、こんな生きにくさも無くなると思っていたのに。

あの頃よりも、より一層生きにくい。

知識を得た分、荷物が重くなっていく。

いろんな荷物を、降ろして前に進みたい。

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