2020年 名古屋大学 二次試験 世界史

かっぱの大学入試に挑戦、24本目は名古屋大学の世界史。時代は古代・中世・近世。地域はヨーロッパ・ユーラシア・太平洋。問題形式としては用語記述+論述で4題。では、以下私なりの解答と解説。


第1問 イベリア半島の歴史

問1.解答 アルタミラ

解説 「イベリア半島の北部」「洞窟壁画」で判断できる。イベリア半島といえばスペイン、スペインの旧石器時代の洞窟壁画といえばアルタミラである。

問2.解答 a:ジブラルタル海峡 b:地中海交易で活躍していたフェニキア人が、イベリア半島で産出される銀などの鉱物を確保しようと植民市を建設した。

解説 aは「ヘラクレスの柱」という別名でわからなくても、地中海沿岸から大西洋岸に抜ける海峡というところから判断したい。bは難問。設問の要求は「地中海の東端から渡来した人々」がイベリア半島沿岸部に多くの植民市を建設した理由を述べること。まずは「地中海の東端」「イベリア半島」に植民市といった情報から、フェニキア人の事を想定したい。地中海交易で活躍していたフェニキア人がイベリア半島に植民市を建設したのは、イベリア半島で金や銀などの鉱物が手に入るためであった。そんなん知らんよな。

問3.解答 カルタゴのハンニバルがアルプスを越えてイタリアのカンナエの戦いでローマ軍に勝利したが、北アフリカのザマの戦いではローマのスキピオに敗北することとなった。

解説 設問の要求はイベリア半島からイタリアを目指した軍勢が、アルプスを越えてローマを脅かしたが、最終的には紀元前202年の戦いで敗北した、その経緯を説明すること。「イベリア半島からイタリアを目指した軍団」とはハンニバル率いるカルタゴ軍であり、「アルプスを越えてローマを脅かした」とは、前216年にハンニバルらがアルプス越えでイタリアに侵入して勝利したカンナエ(カンネー)の戦いのことであり、「紀元前202年の戦いで敗北」とは、ハンニバルらが北イタリアのザマの戦いで、スキピオ率いるローマ軍に敗北したことである。

問4.解答 トラヤヌス

解説 「ローマの版図が最大」と来れば五賢帝の一人トラヤヌス帝であろう。

問5.解答 イスラーム勢力であるウマイヤ朝の侵攻をトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰のカール=マルテルが食い止めた。この結果、フランク王国ではカロリング朝が成立し、キリスト教の守護者として名声を高めたフランク王国には、ビザンツ皇帝と対立していたローマ教皇が接近することとなる。最終的にカールの戴冠により西ローマ帝国が復活ということになり、西ヨーロッパ世界が確立することとなった。

解説 設問の要求は「南からイベリア半島に侵入してきた勢力」が「ピレネー山脈を越えて一時はガリアにまで侵攻したこと」が、8世紀以降の西ヨーロッパの歴史に及ぼした影響について論じること。とってもピレンヌな問題。まず「南からイベリア半島に侵入してきた勢力」とは、イスラーム勢力のウマイヤ朝であり、「ピレネー山脈を越えて一時はガリアにまで侵攻したこと」から、732年に起きたトゥール・ポワティエ間の戦いを想起したい。トゥール・ポワティエ間の戦いではフランク王国の宮宰のカール=マルテルが活躍し、ウマイヤ朝の撃退に成功した。この結果、フランク王国はイスラーム勢力からのキリスト教圏の防波堤となり、フランク王国ではカール=マルテルの子のピピンがカロリング朝を成立させることとなった。この新王朝設立の際、教皇領の元となるピピンの寄進を行い、フランク王国とローマ教皇とのつながりはより強くなっていった。ビザンツ帝国の皇帝と長らく対立下にあったローマ教会は、新たな守護者としてフランク王国に目を付け、800年にピピンの子であるカールに戴冠することで、西ローマ帝国を復活させた。こうして、中世西ヨーロッパ世界が確立したわけである。

第2問 ユーラシア草原地帯の歴史

問1.解答 ア:ローマ イ:北京 ウ:イスタンブール(コンスタンティノープル) エ:西安(長安) オ:草原の道(草原ルート) カ:オアシスの道(オアシス・ルート) キ:海の道(海上ルート)

解説 ユーラシア史の基本問題。アは「すべての道がつうじるといわれた」でも、地図上の位置でもローマと判断したい。イは「元代以降中国の首都となった」なので、北京が正解。大都だと元代限定になってしまうので現在の名称が良いだろう。ウは「ビザンツ帝国の首都であった」とあるので、現在の名称のイスタンブールか、当時の名称のコンスタンティノープルが良いだろう。エは「シルクロードの終着点」「古都」といったヒントをもとに、地図上の場所を確認すると、前漢や隋・唐の都であった長安と判断できる。「古都」と記されていることから、現在の名称である西安のほうがよりふさわしい解答かもしれない。オ・カ・キは「東西交通の代名詞ともなっているシルクロード」とあり、東西交通の3つのルートを北から答えたらよい。

問2.解答 国名:モンゴル(帝国) 内容:東西の交通路が整備され、経済や文化での交流が盛んになった。

解説 「世界史上最大の国」は流石にわかるが、本文のリード文中に文章を入れ込むスタイルは様々な解答が予想されそうでおもしろい。ただ、設問の要求自体は大国の成立が地域に与えた影響なので、モンゴル帝国を念頭に考えると、ジャムチという駅伝制の整備により、ヨーロッパやイスラーム、東アジアといったユーラシア間の交流が盛んになり、経済や文化に相互に影響を与えたことが考えられるだろう。

問3.解答 ク:スキタイ ケ:匈奴

解説 クは「世界史の舞台」に「最初に名前を記した」遊牧国家であり、地図上から黒海北方に広がっていた勢力なので、スキタイと判断したい。ケはスキタイに続いて「ユーラシア草原の東部にあらわれた」遊牧国家となると匈奴が想定できるだろう。

問4.解答 コ:ヘロドトス サ:司馬遷 シ:『歴史』 ス:『史記』 シの内容:ペルシア戦争について記した。 スの内容:前漢の武帝の時代までの中国の歴史を紀伝体で記した。

解説 コ・シは史料中に「ペルシア王」のことが記されており、問3でクがスキタイだと分かれば、そうした内容が書かれうる史料として、ギリシアのヘロドトスが記した『歴史』を想定したい。内容としてもペルシア戦争について記しており、当然アケメネス朝ペルシアのことについても詳しく記しているのである。サ・スも問3でケが匈奴だと分かれば、匈奴について詳しく書かれていうる歴史書として、匈奴討伐を進めた武帝に仕えた司馬遷の『史記』を想定したい。

問5.解答 1:農耕を行わず、町や城壁を築かない 2:家畜を育て、移動しながら暮らしている 3:弓矢を使う騎馬の兵隊であった 4:戦闘では進撃と退却を巧みに使い分け、逃げることもいとわなかった。

解説 『歴史』と『史記』から遊牧民の共通点を4つまとめる問題。史料を読みとり、比較考察させるおもしろい問題。提示された史料がほぼ内容が対比された形で記されていたのでまとめやすかったのではないだろうか。『歴史』において「町も城壁も築いておらず」とあり、『史記』では「城壁とか定まった住居はなく」とある箇所。『歴史』において「種も蒔かねば耕す術も知らない」とあり、『史記』では「耕作に従事することもなかった」とある箇所。『歴史』において「家を運んでは移動してゆく」「生活は…家畜に頼り」とあり、『史記』では「水と草を追って移動し」「家畜を放牧しつつ点々と移動した」とある箇所。『歴史』において「騎馬の弓使いで」とあり、『史記』において「士卒は弓を引く力があれば、すべて甲冑をつけた騎兵となった」とある箇所。『歴史』において「ペルシア王が…向かってきた場合には…逃れつつ…撤収し、ペルシア王が退けば追跡して攻める」とあり、『史記』には「形成有利とあれば進撃し、不利と見れば退却し、平気で逃走した」とある箇所。これらを4つにまとめれば良い。

問6.解答 例えばヨーロッパにおいては、遊牧民であるフン人の侵攻がゲルマン人の移動を引き起こし、その後の国家形成に影響を与えた。東アジアでも五胡と呼ばれる遊牧民の侵攻により、南北朝の分裂が起こり、その後拓跋国家として隋・唐といった大帝国が現れた。モンゴル帝国に至ってはヨーロッパ・東アジアだけでなく東南アジアや西アジアなど世界各地の政治や文化に影響を与えた。

解説 設問の要求は騎馬遊牧民が世界史にあたえた影響について考えられることを述べること。「考えられること」なので様々な解答が想定され、予備校の解答を見ると一般化した抽象的な解答が目立つ。しかし本文ではスキタイと匈奴という具体的な事例を出して説明しており、ここでも「考えられること」として具体的な事例を出した方が良いかと思い、ヨーロッパにおけるフン人、東アジアにおける五胡、ユーラシアにおけるモンゴルの影響をまとめた。名古屋大の発表した出題の意図を見ても、その方向で良いだろう。


第3問 中世ヨーロッパの危機

問1.解答 a:ボニファティウス8世 b:ウィリアム=オブ=オッカム c:ウィクリフ d:フス

解説 中世ヨーロッパに関する基本問題。ただし一部やや難。aは「フィリップ4世と対立」から、アナーニ事件で憤死したボニファティウス8世を想定したい。bはやや難。「唯名論」といえばアベラールとウィリアム=オブ=オッカムが有名だが、「反教皇の立場」となるとオッカムである。cは「イングランド」「聖書の英訳」でウィクリフと判断。dは「ボヘミア」の神学者でフスと判断したい。

問2.解答 A:コンスタンツ B:オックスフォード C:プラハ

解説 Aは「教会大分裂」を収拾した公会議なのでコンスタンツである。Bについて、「イングランド」の大学で神学が有名なウィクリフの出身大学はオックスフォードである。Cは「ボヘミア」のフスの出身大学ということでやや難しかったかもしれない。ボヘミア=ベーメンとはプラハを中心とする現在のチェコにあたる地域である。

問3.解答 聖職売買・聖職者の妻帯

解説 「11世紀から教会の改革を推し進めてきたローマ教皇」とはグレゴリウス7世の事であり、彼は皇帝による聖職者の叙任で発生した聖職の売買と、カトリックでは禁止していた聖職者の妻帯を改革しようとした。

問4.解答 聖職者への課税

解説 問1で解説したアナーニ事件の原因となった対立であり、フィリップ4世は聖職者への課税をめぐって教皇ボニファティウス8世と対立したのである。

問5.解答 ペトラルカ

解説 「イタリアの詩人」「『叙情詩集』を著した」でイタリア=ルネサンスのペトラルカを想起したい。

問6.解答 1:ルターの発表した『九十五ヵ条の論題』が、グーテンベルクにより改良された活版印刷術によって印刷されて広まった。 2:ルターは福音信仰のもと、教皇の権威を否定したので、教会の十分の一税に苦しんでいた農民や、教皇による搾取に反発していた諸侯や市民がルターを支持したため。

解説 設問の要求は、1がルターの考えがどのように人々に伝わったか、2がなぜルターの思想が広範な社会層に受け入れられたかを説明すること。1についてはポイントはグーテンベルクによる活版印刷術の改良であろう。これにより、ラテン語からドイツ語に翻訳された、ルターの考えである『九十五ヵ条の論題』が印刷物として広まることとなった。2についてはポイントはルターが教皇の権威を否定したことだろう。これにより、教会や教皇に反発していた農民・諸侯・市民がルターを支持するようになったのである。


第4問 スペインの国際交易

解答 マゼランの世界周航以降、東南アジアに進出したスペインはフェリペ2世の治世下でフィリピンを領有し、マニラを根拠地とすることに成功した。マニラには絹などの中国の品物が多く商人によってもたらされ、スペインはそうした絹をメキシコのアカプルコに送り出した。当時中南米の多くがスペインの支配下となり、ポトシ銀山など鉱山の開発が進み、ヨーロッパで価格革命を起こすほどの銀が採掘されていた。アカプルコでは絹や陶磁器などの中国の品物が高い利益を出し、その代金としてメキシコ銀が支払われ、銀はアカプルコを発したガレオン船により太平洋を越えてマニラに持ち込まれ、中国へと支払われることになった。その結果中国には大量の銀が流入することとなり、明代には中国国内の税制が銀に一本化される、一条鞭法が成立するに至った。(344字)

解説 設問の要求は16世紀後半に始まった、マニラ、アカプルコ、中国間の国際交易について説明すること。条件として、提示された史料である『フィリピン諸島誌』を参考にすること。いわゆるアカプルコ貿易(=ガレオン貿易)について説明する問題。といっても350字の字数指定からすれば、背景や影響まで書く必要があるだろう。まず背景として、「16世紀後半に始まった」前段階としてマゼランによる世界周航、スペインのフィリピン領有、マニラの拠点化について触れると良いだろう。また、スペインによる中南米の征服により、大量の銀が採掘されたことも重要である。次に、この国際交易の具体的内容についてであるが、史料中で「ヌエバ・エスパニャでは生絹が非常な利益をあげ」「帆船がマニラへ帰る時にその売上金を商人のもとに持ち帰る」「チナ貿易」「この貿易の窓口を通して、年々莫大な銀が異教徒の手に渡り」といったところが参考になる。ヌエバ・エスパニャとは問題文の説明である通りメキシコを中心としたスペイン領であり、アカプルコはメキシコの太平洋岸の港市であった。史料中の「生絹」とは中国産の絹であり、「帆船」とはガレオン船であり、「異教徒」とは中国人のことと判断したい。中国➝(絹)➝マニラ➝(絹)➝アカプルコ➝(銀)➝マニラ➝(銀)➝中国というやりとりがなされていることを史料から読み取りたい。あとはこの国際交易の影響として、中国に銀が大量流入した結果、一条鞭法という税制が誕生したことについて触れられると良いだろう。


以上で終わり。世界史でも史料をうまく活用した問題があっておもしろかったです。日本史と違い世界史は大学の方から模範解答まで発表されているので、予備校などの解答速報のズレがはっきりとわかってしまいますね。

次回は愛知教育大学の日本史の予定。

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