2020年 東京都立大学 二次試験 日本史

かっぱの大学入試に挑戦、11本目は首都大学東京改め、東京都立大学の日本史。時代は古代・中世で1題、近世で1題、近代で1題、近現代で1題の大問4題。形式は論述。史料読解もあり。では、以下私なりの解答と解説。


第1問 銭貨の歴史

問1.解答 富本銭と和同開珎は、それぞれ藤原京・平城京という都城造営の際に雇われた人に支給され、造営費用として使用された。しかし、当時は布や米が貨幣として広く使用されていたため、全国ではあまり流通しなかった。(98字)

解説 設問の要求は銭貨が①どのような国家事業で②どのように使用されたか、また③貨幣としてあまり流通しなかった理由について説明すること。条件として、リード文Aに記されている二つの銭貨の名称をそれぞれ明らかにすること。まず二つの銭貨であるが、「飛鳥池工房遺跡」で発掘された鋳型の銅銭は、リード文Aでも『日本書紀』の天武天皇の条に見えるとあるので、富本銭である。708年に鋳造された銭貨については、「流通を奨励するため蓄銭叙位令を発した」とまで書かれており、本朝十二銭の始まりである和同開珎を思い浮かべたい。これらの使用についてだが、わざわざ「国家事業」とまで問題で述べられており、リード文の時期を見れば想定しやすい。富本銭については「683年」に使用が命じられていたという記事が挙げられているが、天武朝に藤原京の造営が始まり、持統天皇の694年に藤原京遷都が実現されたことを想定したい。和同開珎については「708年」に鋳造とあり、710年に平城京遷都がなされたことを想定できれば、いずれも都城の造営に関わることが考えられる。都城の造営には多くの人手が必要だが、こうした雇った人夫に銭貨が支給されたのである。しかし、京・畿内以外の地域では布や米で物品をやりとりしていたため、わざわざ銭貨を用いることが少なかったと考えられている。

問2.解答 大輪田泊を修築して日宋貿易を推進することで、宋銭が国内に流通するようになり、年貢の銭納なども行われるようになっていった。また、宋から書籍なども輸入され、仏教や美術などに新しい知識がもたらされた。(97字)

解説 設問の要求はリード文Bにおける銭貨の流通を促進させた政策と、それが後の社会や文化に与えた影響について説明すること。まずリード文Bであるが「平清盛による積極的な政策」とあり、銭貨の流通と関わる政策となれば、宋銭をもたらした日宋貿易だろう。清盛は現神戸市に大輪田泊という港を修築し、日宋貿易を推進した。問題は日宋貿易がその後の時代の「社会」や「文化」に与えた影響である。「社会」に与えた影響というと、なかなか整理しづらいところでもあるが、宋銭の流通による年貢の銭納や、陶磁器の輸入による国内における陶磁器生産の発展、さらには市の発展や商業の進展も考えられるだろうか。「文化」への影響は唐物の流通、書籍の輸入による影響が考えられる。禅宗の知識が入ってきて、建築においても禅宗様などが見られるのも、こうした日宋貿易の影響とみることもできるだろう。

問3.解答 京と東北地方との遠隔地で商取引がされており、本州の和人が蝦夷ヶ島南部に進出して交易していた状況。(48字)

解説 設問の要求は蝦夷ヶ島南部に大量の銅銭が埋納されていた状況について説明すること。「蝦夷ヶ島南部に大量の銅銭がある」という状況の説明か、「銅銭が大量に埋納されていた」状況の説明か、二通りの捉え方が出来るが、字数を考えると前者を中心にまとめた方が良いだろう。リード文でも「貨幣流通の様子をうかがい知ることができる」とあり、全国的な貨幣流通=商取引が行われていたこと、蝦夷ヶ島南部でも貨幣を使った商取引がなされていたということがうかがえる。東北地方では青森の十三湊と京畿内とが日本海交易でつながっており、蝦夷ヶ島南部には和人が進出し道南十二館をつくっていったことを念頭に置きたい。


第2問 武家諸法度

問1.解答 幕府と諸大名は私的な従属関係から公的な政治関係へと変化した。(30字)

解説 設問の要求は下線部アが出された結果、幕府(将軍)と諸大名の関係がどのように変化したか説明すること。まず下線部アについてだが、「金地院崇伝」の起草、「徳川秀忠によって」発令とくれば、武家諸法度の元和令だろう。問題はこの武家諸法度元和令が出された結果であるが、教科書ではなかなかそこまで踏み込まれていない。かといってリード文だけで考察するのも難しい。山川出版社の『詳説日本史研究』にはドンピシャでこの点について書かれていたので、解答はそこを参照にさせてもらったが、どうせならもっと他の史料とかをつけて考察させてもおもしろいのになぁと思った。戦国時代以来の戦功による主従関係から、法度の遵守による主従関係へと変わった、とかでも良いのかなぁ。

問2.解答 徳川家光によって発布された武家諸法度寛永令により、大名が国元と江戸を一年交代で往復する参勤交代の制度や、新しい城を築くことを禁止して城の修築の際に届け出を出すこと、大名が幕府の許可なく勝手に婚姻を結ぶことを禁止することを定めた。(114字)

解説 設問の要求は下線部イの法令の名称・法令を発した人物・法令の内容の3点を説明すること。条件として法令の内容は掲載した史料中に記される具体的な内容を示すこと。まず下線部イであるが、「寛永12年」とあることや、掲げられた史料から、3代将軍徳川家光の代替わりに出された武家諸法度の寛永令と判断できる。史料はそのうちの第2条・第3条・第8条であり、第2条が参勤交代のこと、第3条が城郭について、第8条が婚姻について書かれており、内容を読み込んでまとめれば良いだろう。

問3.解答 参勤交代の際に従者の数などが増え、大名は経済的負担が大きくなった。一方、大名の通行のために五街道が整備され、宿場が栄え、やがて大名だけでなく商人や庶民の往来も盛んになっていった。(89字)

解説 設問の要求は参勤交代の結果、①大名にどのような経済状況がもたらされ、②道路に関わる経済事情と利用事情はどのように変化したか説明すること。①については、史料中に示された対策案に反する形となった、とまで設問に示されている。史料中では「従者の員数近来甚だ多し。且は国郡の費、且は人民の労なり。向後その相応を以て、これを減少すべし」とあるので、大名にとって経済的負担が大きくなっていったと捉えられるだろう。②については、まず道路に関わる「経済事情」として、五街道の整備・本陣や脇本陣の設置により宿駅(宿場)が栄えてくることが考えられるだろう。街道が整い、宿場が栄えてくると、今度は「利用事情」の変化として、大名だけでなく商人や一般の庶民の往来が盛んになっていったことが想定される。


第3問 横浜の歴史

問1.解答 幕府は五品江戸廻送令を出し、江戸の問屋を通すことで商品の国内供給量を確保して物価騰貴を抑え、金の比率を下げた万延貨幣改鋳により金貨流出を食い止めようとした。(78字)

解説 設問の要求は日米修好通商条約発効後の物価騰貴や金貨流出に対する幕府の政策を説明すること。開港後の幕府の経済対策としては典型的な設問。「物価騰貴」に対しては五品江戸廻送令、金貨流出に対しては万延貨幣改鋳について述べればよいだろう。

問2.解答 1880年代から綿糸の機械制生産が進み、1890年代には綿糸の輸出量が輸入量を上回っていった。生糸生産も器械製糸が増えていき、綿糸や生糸の輸出が相次いだ。また、造船奨励法・航海奨励法により、遠洋航路が開拓され、海外との貿易が盛んになった。(119字)

解説 設問の要求は横浜が発展することになった貿易の拡大の要因を説明すること。条件として、①1880~90年代の繊維産業の発展と、②1890年代に実施された海運奨励政策の面から触れること。①については紡績業の機械化により、1890年に綿糸の生産量が輸入量を上回り、1897年に輸出量が輸入量を上回り、綿糸の輸出が増加したこと、生糸の器械製糸化が進み、日清戦争後に器械製糸の生産量が座繰製糸の生産量を上回り、生糸が主要な輸出品として取引されたことをまとめると良いだろう。②については1896年に公布された造船奨励法と航海奨励法により、遠洋航路が開かれ、特にインドへのボンベイ航路は綿花の輸入を促進させたなどのことについてまとめると良いだろう。


第4問 米食の歴史

問1.解答 第一次世界大戦による大戦景気で物価の高騰し、工業化の進展により都市住民が増加し都市での米の需要が増加したことに加え、シベリア出兵を見越した商人による米の買い占めにより米価が高騰し、米騒動が起こった。(102字)

解説 設問の要求は「100年と少し前の米をめぐる事件」について、①事件の名称にふれ、②事件発生の背景について説明すること。条件として、③世界の動き、④日本の経済発展の状況、⑤都市部での社会の変化、⑥米の高騰をまねいた人為的な要因に即すること。①は言わずと知れた米騒動であるが、②の背景については設問で挙げられた条件を一つ一つ整理していけば自ずと解答ができあがる。③については第一次世界大戦とそれにともなうヨーロッパ列強のアジア市場からの撤退や造船需要の高まり、④については大戦景気と工業化の進展、⑤については都市住民の増加と米の需要増加、⑥についてはシベリア出兵を見越した商人による国内買い占め、といったところだろう。

問2.解答 砂糖などの切符制や供出させた米の配給制を進めた。(29字)

解説 設問の要求は「アメリカとの戦争が始まる前後」に政府が国民の食べるものをどう統制したか、仕組みを説明すること。「アメリカとの戦争が始まる前後」と来れば1941年の太平洋戦争開戦前後である。1940年の砂糖などの切符制や米の強制的買い上げ制度である供出制、1941年の米の配給制について述べればよいだろう。

問3.解答 食糧管理制度の下で米が供給過剰になり、食糧管理特別会計が赤字になったため、米の作付面積を制限する減反政策がとられた。(58字)

解説 設問の要求は①史料に描かれた政策の名称にふれ、②政策の背景、③政策の内容を説明すること。まず①の史料である農民の日記に描かれた政策であるが、「1970年」「米生産調整の農協の説明会」「休耕の時代」といったところから、減反政策を想起したい。②減反政策の背景としては米については戦前からの食糧管理制度下にあったこと、洋食の普及や農業生産力の向上もあり、米の供給が過剰になってきたこと、食糧管理特別会計が赤字になったことなどが挙げられる。③の減反政策の内容としては米の作付面積の制限である。減反政策について背景から説明しなければならず、現代史の学習がしっかりできていないと難しかったであろう。


以上で終わり。知識を整理系の論述が多かったですかね。それでもこういう視点から見るのか、という切り口はあったので、それはそれでおもしろいのですが。

次は東京都立大学の世界史ですね。

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