2020年 東京学芸大学 二次試験 世界史

かっぱの大学入試に挑戦、16本目は東京学芸大学の世界史。時代は古代・中世・近世・近代。地域はヨーロッパ2題、東アジア2題。問題形式としては用語記述+論述。では、以下私なりの解答と解説。


第1問 古代・中世ヨーロッパ

問1.解答 (1)ケルト (2)ゲルマン (3)ヴァンダル (4)西ゴート (5)クローヴィス (6)フランク (7)領主 (8)不輸不入 (9)直営地 (10)賦役

解説 古代・中世ヨーロッパの基本問題。(1)は「ローマによる征服以前」「ブルターニュ半島やアイルランド島には現在も」「文化・言語が色濃く残っている」から判断。(2)は「4世紀以降、民族大移動の主体」「西ローマの滅亡をもたらし」でわかる。(3)は「現在のチュニジア、アルジェリア、リビアあたり」で北アフリカに建国されたゲルマン人の国と判断。(4)は「イベリア半島」のゲルマン人の国で判断。(5)(6)は「ヨーロッパ史の展開の中で最も重要な役割」「5世紀後半」に「統一」で判断。(7)は「荘園の所有者」で判断。(8)は「国王役人の介入を阻む」から、役人の立ち入りを拒む不入権だけでもいいかもしれないが、課税を拒むのも「介入を阻む」と捉えることもできるかと思い、不輸不入(権)とした。(9)は「(領主)が直接経営」なので、そのまま解答。(10)は直営地での「労働」なので賦役、生産物を納めるのが貢納である。

問2.解答 紀元前6世紀末:共和政 紀元前1世紀後半:元首政

解説 古代ローマの国制ということで、紀元前6世紀末と言えば、エトルリア人の王を追放して共和政が成立した頃、紀元前1世紀後半(紀元前20年代)と言えばアクティウムの海戦に勝利したオクタウィアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を与えられて元首政(プリンキパトゥス)が始まったころである。

問3.解答 ポエニ戦争

解説 イベリア半島へ古代ローマの進出が始まったのはいつか、だけだと判断は難しいかもしれないが、「何という戦争の時か」とあるのが大ヒント。カルタゴのハンニバルがイベリア半島からアルプス越えでローマを攻めてきたが、その後大スキピオがスペインを攻めてカルタゴを攻撃した。まさにこのポエニ戦争のさなかにイベリア半島に進出したのである。

問4.解答 スコットランド

解説 「現在のイギリスの大ブリテン島」とは、イングランド・スコットランド・ウェールズから成る。イングランドとウェールズまではローマ帝国領ブリタニアとなったが、スコットランドまでは拡大せず、ハドリアヌスの長城が築かれた。

問5.解答 地域名:ガリア 政治家:カエサル

解説 古代ローマの基本問題。カエサルは現在のフランスにあたるガリアに遠征し、『ガリア戦記』を記してゲルマン人についての記録を残した。

問6.解答 宗派:アリウス派 教義の特徴:キリストを人間とみなした。(13字)

解説 いわゆるクローヴィスの改宗に関わる問題。ゲルマン諸王国の多くが信仰していたキリスト教の宗派と教義の特徴を問う。ゲルマン民族の間では、ニケーア公会議で異端とされたアリウス派を信仰していた。正統とされたアタナシウス派がキリストを神と同一視したが、アリウス派はキリストの神性を否定し、キリストを神の創造した人間であるとした。


第2問 隋・唐・元史

問1.解答 (1)建康 (2)長安 (3)開封 (4)洛陽

解説 中国史の基本問題。(1)は「南朝最後の王朝陳の都」、(2)は「唐」の都、(3)は「後梁」の都、(4)は「後唐」の都であり「後漢や北魏も都を置いた」という点から判断したい。

問2.解答 南北朝期に発展した江南の経済力と華北を結びつけるため、長江と黄河を結ぶ大運河を建設した。(44字)

解説 設問の要求は「隋の時代に進められた土木工事」の目的と内調を説明すること。隋代の大工事と言えば長江と黄河を結ぶ大運河の建設であるが、この目的となると、南北朝時代に江南の開発が進み、経済的に発展した江南の豊かさを活用しようとした点だろう。

問3.解答 玄宗が楊貴妃を寵愛したため、一族である楊国忠が権力を握るようになり、それに反発した安禄山と史思明が反乱を起こした。この乱の結果皇帝の力は弱まり、地方では節度使が権力を握っていった。(90字)

解説 設問の要求は安史の乱の発生した原因と、その結果唐の支配体制が動揺した理由について説明すること。条件として「楊国忠」「節度使」の語句を用いること。問われている内容は2つだが、それぞれに対応した語句が示されているため、解答しやすい。「楊国忠」については掲載されていない教科書もあるが、「楊」の名字から、楊貴妃の一族であることを想定したい。安史の乱の要因として、玄宗が楊貴妃を寵愛するあまり、楊貴妃の一族が取り立てられ、その中でも楊国忠が権力を握っていくこととなったことが挙げられる。節度使であった安禄山とその部下の史思明はこうした情勢に反発し、反乱を起こした。反乱は遊牧民族であるウイグルの力を借りてようやく鎮圧でき、この結果皇帝ら中央政府の力は弱まり、地方では節度使が権力を握り藩鎮として強大化し、唐の支配体制が動揺していくこととなった。

問4.解答 唐の政府が塩の専売を行い、密売が厳しく取り締められていったため。

解説 「この時期」というのが黄巣が反乱を起こした9世紀後半であるが、当時財政難に陥っていた唐の政府は塩の専売を行うことで財源を確保しようとしていた。塩の価格は政府によって決められ、密売者は厳しく取り締まられた。こうした中で唐政府に対する不満が高まっていったのである。

問5.解答 (5)ウイグル (6)クリルタイ (7)カラコルム (8)大都 (9)臨安 (10)南京

解説 中国史の基本問題。(5)は「安史の乱後、苦境に立った唐を救った」でわかる。(6)は「ハンの位に即いた」とあり、モンゴルの長であるハンを決める場と言えばクリルタイである。(7)「オゴタイ」が建設した都なのでカラコルム。(8)「フビライ」が都を「北京」に定めて改称した名称なので大都である。(9)「南宋の都」から判断できる。(10)「朱元璋」が「皇帝位に」即位した場所なので南京である。

問6.解答 モンゴル帝国は交通路の整備を進め、元の時代にはジャムチと呼ばれる駅伝の制度が整い、大都を中心とする交通路が整備された。その結果、ムスリム商人による隊商交易がヨーロッパからアジアにかけて盛んになった。モンゴル帝国に対する関心が高まっていた西ヨーロッパでは、ローマ教皇がプラノ=カルピニを派遣するなど交流を図った。元の時代にはモンテ=コルヴィノが大都を訪れ、初めてカトリックを布教した。(192字)

解説 設問の要求はモンゴル帝国から元にかけての陸路による長距離交易や文化交流のあり方について述べること。条件として「駅伝」「ムスリム商人」「プラノ=カルピニ」「モンテ=コルヴィノ」の語句を用いること。いわゆるモンゴルの時代における東西交流ということで、指定語句を追いながら整理していけば自然と解答が出来上がる問題。まず「陸路による長距離交易」のあり方だが、元代におけるジャムチと呼ばれた「駅伝」制度の整備、こうした交通路を通じた「ムスリム商人」の隊商交易について触れると良いだろう。「文化交流のあり方」は事例は多く挙げられるが、指定語句と字数を考えると、モンゴル帝国時代にローマ教皇が派遣した「プラノ=カルピニ」、元代に大都に派遣されてカトリックを伝えた「モンテ=コルヴィノ」について説明できれば十分だろう。実在の疑われるマルコ=ポーロや、フランス王の派遣したルブルックなどは触れる余裕は無いだろう。

問7.解答 元は支配下の地域の文化や社会に対して放任的であったため。

解説 元の時代に宋代以来の大土地所有が引き続き発展し、庶民文化が栄えた理由だが、モンゴル人の支配というのが漢人の社会制度を大きく変えたり、文化を厳しく統制したりするものではなかった点が大きいだろう。また、問6でもあったように、交易も盛んで商業活動が活発に行われていたことに触れても良いかもしれない。

問8.解答 倭寇の撃退で名声を上げた軍人の李成桂が、高麗を滅ぼして王として即位し、朝鮮を建国した。(43字)

解説 設問の要求は高麗で政治的混乱が起こり、朝鮮王朝が成立した過程について述べること。条件として「倭寇」「元寇」「李舜臣」「李成桂」の中から適切な語句を用いること。条件の語句指定が、使う必要のない語句もあるので注意が必要。といっても「倭寇」と「元寇」、「李舜臣」と「李成桂」なら、さすがに違いを理解しておきたい。


第3問 ポーランドの歴史

問1.解答 ポーランドは選挙王政の下で貴族間の対立が起こり、大国の干渉を受けやすかった。プロイセン・ロシア・オーストリアによって第1回ポーランド分割が行われた後、ポーランドでは近代化が進んだが、フランス革命中にプロイセンとロシアにより第2回ポーランド分割が起こると、コシューシコらが蜂起した。この蜂起は失敗し、プロイセン・ロシア・オーストリアにより第3回ポーランド分割が行われ、ポーランドは消滅することになった。(200字)

解説 設問の要求はコシューシコが蜂起した当時のポーランドの情勢と歴史的背景、蜂起の後にポーランドがどのようになったか説明すること。いわゆるポーランド分割についての問題だが、「1794年に蜂起」と年代まで出している以上、第1回~第3回のポーランド分割を整理して説明する必要があるだろう。まずそもそもの「歴史的背景」であるが、これは選挙王政による内政の不安定化について触れたらよいだろう。加えて、「当時のポーランド情勢」である第2回ポーランド分割の背景にフランス革命によるヨーロッパの混乱があったことも見過ごせない。蜂起の後の状況としては、第3回ポーランド分割が行われ、ポーランドが消滅し、第1次世界大戦まで復活しなかったことをまとめれば良い。

問2.解答 小冊子:『コモン=センス』 著者:トマス=ペイン

解説 アメリカにおいて「独立論を高揚させた」と言えばトマス=ペインの著した『コモン=センス(常識)』である。アメリカがイギリス本国から独立するのは常識、と述べたわけである。

問3.(1)解答 フランス国王のルイ16世が戦争による財政難から特権身分に課税しようとすると、特権身分が反対し三部会が開かれた。三部会では特権身分と第三身分が対立することとなった。第三身分は国民議会を結成し、憲法制定を目指したが、国王は武力で弾圧しようとした。民衆はこれに反発し、バスティーユ牢獄を襲撃し、革命が始まった。国民議会は封建的特権の廃止を決定し、次いでラ=ファイエットらの起草した人権宣言を採択した。(197字)

解説 設問の要求はフランス人権宣言の発せられた1789年の経緯を述べること。条件として「バスティーユ」「三部会」「封建的特権の廃止」の語句を用いること。問われているのはあくまで「1789年」の人権宣言発表までの経緯なので、国王の課税➝特権身分の反対➝三部会の開催➝第三身分の反発➝国民議会の結成➝憲法制定の目標(球戯場の誓い)➝国王の弾圧➝バスティーユ牢獄の襲撃➝封建的特権の廃止➝人権宣言、という流れになる。1789年にはヴェルサイユ行進も行われるが、これは人権宣言より後なので今回は触れなくて良いだろう。

(2) 解答 一院制の立憲君主政で、選挙権を有産市民に限定した。

解説 1791憲法が掲げた政治体制と政治の特徴を問うた問題。政治体制としては立憲君主政、政治の特徴としては制限選挙の下の一院制といったところだろう。

問4.(1)解答 1933年、ナチス・ドイツは軍備制限に反対し国際連盟を脱退した。1935年にはザール地方を編入し、再軍備を宣言した。翌年にはロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐し、1938年にはドイツ民族の統一を掲げてオーストリアを併合した。次いでチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求すると、この問題に対処するためにイギリス・フランス・イタリア・ドイツの4国によってミュンヘン会談が開催された。(196字)

解説 設問の要求はミュンヘン会談に至る経緯を述べること。条件として、1933年以降のナチス・ドイツの対外政策の展開を軸にすること。条件にある通り、1933年以降のナチス・ドイツの対外政策を追っていくと良い。国際連盟の脱退➝ザール地方編入➝再軍備宣言➝ロカルノ条約破棄➝ラインラント進駐➝オーストリア併合➝チェコスロヴァキアのズデーテン地方割譲要求といった流れである。

(2)解答 政治家:ネヴィル=チェンバレン 政策:宥和政策

解説 何となれば(1)とまとめて論述にできそうな問題。ミュンヘン会談におけるイギリス代表はネヴィル=チェンバレンである。「チェンバレン」だけだと19世紀末の植民相のジョゼフ=チェンバレンと区別がややこしいので(といってもジョゼフは既に亡くなっているが)、フルネームで答えた方が良いだろう。政策については、ナチス・ドイツに対して及び腰な姿勢のため宥和政策と呼ばれた。

問5.解答 ポーランドに侵攻し、ポーランドをドイツと分割し、その後フィンランドに宣戦し戦争を始めた。さらにエストニア・ラトヴィア・リトアニアのバルト三国も併合し、ルーマニアからベッサラビアを獲得した。(96字)

解説 設問の要求は独ソ不可侵条約と秘密協定に基づいてソ連がどのような行動をとったか述べること。これまでのリード文からすれば、ポーランドに侵攻してポーランドをドイツと分割したことを述べたら良いと思われるが、それだと圧倒的に字数が余るので、その後のフィンランドとの冬戦争、バルト三国の併合、さらにはベッサラビアの奪還まで触れるとようやく収まる。ベッサラビアまで触れるのは難しいと思うが。


第4問 清の外交

問1.解答(1):上海、ニ (4)広州湾

解説 中国の都市の基本問題。(1)は広州・福州・厦門・寧波と来ての「五港」なので、ますは史料1が南京条約の五港開港のことであり、残る一港は上海だと判断したい。地図上の位置としては長江の河口の都市ということを押さえておきたい。(4)は「フランスに対する」租借地であり、イギリスが九竜半島などを手に入れていることと合わせれば、日清戦争後の中国分割でフランスが手に入れた広州湾を想起したい。

問2.解答 (2)ドイツ (3)ロシア

解説 (2)は「〔三国〕干渉」、「〔膠州湾の〕占拠」から、日清戦争後の下関条約における日本への遼東半島割譲に対して三国干渉を行ったロシア・フランス・ドイツのうち、この後膠州湾を手に入れたドイツと判断できる。(3)は「イギリス」と「互いに猜疑心が強く」、「旅順・大連を租借」と来たらロシアである。

問3.解答 南京条約 清はヨーロッパとの交易は広州一港に限定していた。イギリスはマカートニーを派遣して、広州以外の港も開港して自由貿易をすることを求めたが、清は従来の姿勢を崩さず、要求を認めなかった。(89字)

解説 史料1の条約の名称については問1で既に触れたとおりである。もう一つの設問の要求は南京条約以前の清英間の貿易に対する交渉と結果を説明すること。条件として「マカートニー」「広州」「自由貿易」の語句を使用すること。南京条約以前の清英間の交渉については条件で指定された語句を使用してまとめれば良い。なお、イギリスはマカートニーのあとにアマーストも派遣したが、アマーストは謁見すらかなわず交渉もできなかったわけで、今回は触れなかった。結果として清は従来の朝貢体制の姿勢を崩さず、イギリスの要求を認めてこなかったことが重要だろう。

問4.解答 第一次世界大戦で日英同盟を理由に参戦した日本によって青島などのドイツ領が占領され、ドイツの統治は終了した。(53字)

解説 設問の要求は膠州湾などのドイツによる統治がどのような契機で終了したか説明すること。端的に言えば第一次世界大戦で日本が占領して終了するわけだが、字数の関係でやや付け足しながら説明した。

問5.解答 アロー戦争後、外国公使が北京に駐在するようになったが、外交を取り扱う役所が無かったため、設置された。(50字)

解説 設問の要求は総理各国事務衙門が設置された経緯を説明すること。清はこれまで冊封体制の下、外国も藩国や属国といった形で国内の延長線上にとらえてきた。それがアロー戦争後に欧米列強の外国公使が駐在することになり、外国と交渉する役所が改めて必要になったわけである。

問6.解答 19世紀初頭まで、清は伝統的な朝貢的外交の姿勢をとり、自らが中華であり欧米各国を下に見なしていた。しかしアヘン戦争の敗北により、開港を余儀なくされると、アロー戦争にも敗北し、中華としての立場が崩れていった。日清戦争敗北後には、ついに欧米各国に対して租借地や利権を渡すことになり、列強の進出を認めることとなった(154字)

解説 設問の要求は史料1~3に見える清と欧米各国の関係の変化について説明すること。条件として「日清戦争」「アロー(第二次アヘン)戦争」「伝統的外交(朝貢的外交)」「租借地や利権」の語句を用いること。史料1~3だけだと、南京条約から中国分割までの話となるが、これまでの設問や条件の指定語句を見ると、南京条約以前の関係から追って説明していくと良さそうである。大枠としては、朝貢的外交(清が頂点、欧米は下位)➝条約締結(清と欧米の対等的立場)➝中国分割(清が下、欧米が上位)といった変化であろう。変化のタイミングとして、アヘン戦争およびアロー戦争、日清戦争が挟まる形となる。あまり史料を深く読解せずともまとめられそうな内容であったが、どうであろうか。


以上で終わり。今回も予備校の解答などが見当たらなかったので、ダブルチェックが出来ていないので悪しからず。19世紀~20世紀の東アジアの国際関係の変化が何だか今年はよく出題されている気がします。

これにて関東地方は一旦終了。次回は新潟大学の日本史あたりに取り組みたいですね。

#教育 #大学入試 #東京学芸大学 #学芸大 #世界史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?