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ヴェイユに捧ぐ#2:集団と人格

 河出文庫『アンソロジー』所収の「人格と聖なるもの」の偏った読解です。
 「人格と聖なるもの」には、いろんなテーマが盛り沢山で、今回は「集団」に関することを中心にしたまとめになります。読解ではありますが、堅苦しくならないように、基本的には私の言葉を中心に書いていきます。もちろん、破壊的なセンテンスは引用のかたちで拾っていきますよ。あと、あくまで読解なので、いわゆる解釈はしますが、私の意見は含めません。なぜこういうことを書くかというと、今回の記事は「ビジネスと哲学」のマガジンにも加えたい……加える意義があると思っているからです。

導入

私たちは国に守られている

 最近の(海外)ニュースで目につくのは、年金の問題ですね。フランスでは「黄色いベスト運動」の比じゃない規模のデモがあったし、今後も計画されているようです。他だと……あくまで一例ですが、オーストラリアの先住民の方が政府の年金改革に反対している事例が印象深かったです。先住民の年金支給年齢を低くすることを求めた訴訟を起こしているのですが、その理由は、先住民の方が統計的に寿命が短い(年金を貰える期間が短い)というものです。理由や反対の仕方はどうあれ、これらは明らかに一種の権利要求でもありますし、平易に表現すると国に「守ってください」とお願いしている、ということです。
 さて、エスポジトがヴェイユは正義の問題と権利の問題を明確に分け、正義の問題の方が大事だと書くとき、参照されているのはヴェイユの権利に関するこのテクストです。さっそく追ってみましょう。

権利の観念

量としての権利

 ヴェイユは、権利の観念は社会的な争いの中心に置かれている、といいます。

「わたしにはこれこれの権利がある」、「あなたにはこれこれの権利がない」といった……これらの言葉は、潜在的な闘いを孕んでおり、闘いの精神を呼び覚ます。

343頁

 ここで書かれている「闘いの精神」はネガティブなニュアンスしかもっていません。例えば「権利の観念は、分配、交換、量の観念と結びついている」と書かれ、経済的だったり訴訟や請求の声色とヴェイユはいうのですが、導入の事例……訴訟もそうですけど、統計データが根拠だったりするのは、まさにその通りといったところです。
 このような権利要求に含まれている(とヴェイユが指摘する)おかしなところは、人をいわば「価値」で測っているということです。人と人に付随する権利を、一度経済的な数字(量)に還元して、それを要求している。そして、その要求は、「パイ」の取り合い(いわゆるゼロサムゲームってやつ)です。これが「闘い」がネガティブなニュアンスで語られる理由の一つです。
 「量」に関する話としてヴェイユは次のような例でそのおかしさを強烈に示します。市場で買い手から不躾に卵を買い叩かれた農民は「言い値でなければ、わたしには卵を売らない権利がある」がいえるだろう。それと比べて、力づくで売春宿に入れられそうになっている若い娘が、自分の権利について語るだろうか。そんなわけないです。「このような状況において、権利という言葉は、その不十分さのために滑稽に思われるであろう。/こうして、権利という語を用いることで、力づくで売春宿にいれられそうになっている若い娘の状況に類似する社会的な惨事が……農民の状況に類似するものとして、事実と異なるあらわれをもったのである。」(344)
 この言葉の直後にヴェイユは「権利の観念は……人格の観念をともなう」と書くのですが、ここでの「人格」とは、値段をつけることができるものというニュアンスです。

権利と集団と力

 人格ペルソナ個性パーソナリティについてヴェイユが提示する問題もあるのですが、今回は「人格」よりも「権利」や「集団」に焦点を当てましょう。

人格はその本性からして集団に従属している。権利はその本性からして力に依存している。

337頁

 ここまでの話を前提に、上記の文章が意味することを整理するなら――権利というものは、それを守る/守らせる力があってはじめて意味を持つ。そういう力の持ち主の端的な例は国である。こんなところでしょうか。
 そのように権利を要求する人が語りかけるのは国という集団なのですが、「集団に話しかけるのは虚構的な働きである」とヴェイユは言います。「集団は、虚構フィクションによるのでなければ、「誰か」ではないからである。」(329) これが、権利要求のおかしなところの二つ目です。
 国が権利主体として認めたもの=人格だけが権利を持つ(要求することができる)、これは私たちにとって現実であり、わざわざ意識するまでもない前提です。ヴェイユはそういう権利要求――「人格的な抗議……はとるに足らないものである」(320)と一蹴します。だって、人格という観念は虚偽だし、抗議する相手は虚構だからです。

集団が提供する紛い物

 とはいえ、国や人権といったものは現実味リアリティを持っています。なぜか。ヴェイユは、集団が「聖なるものの紛い物」を提供しているからだといいます。集団に聖なる性質を与えるという誤りは「もっともあまねく広まった犯罪」だということに加えて、「人格の開花のみが重要だとみなす人々の目には、聖なるものの感覚すら完全に失われている」といいます。ここで念頭に置かれているのは、いわゆるフランス啓蒙思想家(ディドロなどの百科全書派)ですが、人権を大事にしている人たち全般と置き換えていいでしょう。一方で、「集団に聖なる性格を与える」ものの代表はもちろんナチスです。そしてここがポイントですが、ヴェイユは、集団に聖なる性質を与えること人格の開花に重きを置くことは同じ「ふたつの誤り」というのです。

集団に向けて人格が聖なるものだと述べるのが無駄であるならば、人格に向けて人格そのものが聖なるものだと述べるのもまた無駄である

330頁

 それでも、権利を要求する人たちがいる。ヴェイユは「こうした人が感じているのは、真正の聖なる感情ではなく、集団的なものが生み出す、聖なるものの誤った紛い物である。自らの人格が問題となっている場合にそれを聖なるものだと感じる」こと、それも虚偽なんですが、それらが虚構や虚偽であることは「社会的な配慮に暖かく包まれている人にはわからない」(331)といいます。そこまでいいますか、と思ったりしますけどね。

論点整理と展開

 さしあたって、導入で紹介した事例については完膚なきまでに片付いたと言っていいでしょう。権利を要求する人は、まず自分(の人格)を計量することによって、次に要求する相手が虚構であることによって、間違っている。さらに、要求したり抗議したりする人たちはなんだかんだいって「社会的な配慮に暖かく包まれている」もんだから、それがおかしなことであることに(構造的に)気付くことができない――ヴェイユのテクストが示すのは大枠としてはこんなところです。
 私が注目したいのは、「もっともあまねく広まった犯罪」つまり「ふたつの誤り」の方――①集団に聖なる性質を与えることと②人格の開花に重きを置くことについてです。
 これらって、現在の企業・会社(会社は人の集まり、集団です)にあてはめることができますね。「聖なる」という言葉は「社会的」とかに世俗化していると考えるとして、あてはめてみましょう。①は、企業理念だったり、ビジョンだったり、クレド(信念)だったり……ようするにウェブサイトのトップページに書いてあるようなものです。流行り言葉でいえばパーパス経営ってことでしょうが、あれって企業に人格を想定して――実際に法人格でもありますが――自分(企業)が存在する目的パーパス(内容はだいたい社会的なものです)を明らかにしているんですよね。虚構でしょ。……私は別の意見を持っていますが、ヴェイユがいってるのはまさにそういうことですよね。
 次に②。まず、人格の開花=個性の発揮と考えていいです。学校の教科書みたいな話……ではありますが、実際そのレベルなんだからしょうがないです。そして中身は会社によって様々でしょうが、昨今ほど(従業員の)個性の発揮、あるいは多様性について、それらが持続可能性(内実は将来の成長性)や生産性の高さに結び付けられている時代はないと思います。そして、これがヴェイユの時代の労働環境と大きく違う点です。しかし待ってください。それは①だってそうですよね。ヴェイユの時代にパーパス経営(的なもの)があったとしても極めて少数派だったと思います。話を戻して②ですが、これに該当するような取り組みは、虚偽です。……私は別の意見を持っていますが、ヴェイユがいってるのはまさにそういうことですよね。
 ここが非常に重要なんですが、ヴェイユが未来の企業のあり方や働き方を言い当てているとかそういう話ではありません。ヴェイユが「犯罪」と見たことと実質的に同じものが、社会から、株主から、あるいは就活生から求められているということです。それゆえ極めて論理的な帰結として、犯罪――ヴェイユの別の言葉では「悪」が跋扈している、これが今まさに現在進行系の状況です。読解のさいごとしてはこういう文脈で(しかし解釈なしに)読める引用で締めます。

才能のある人、知性のある人、精力的な人、気骨のある人、個性の強い人といった人々が、不幸な人と真に純粋な英雄、聖人、天才といった人たちとのあいだの遮蔽幕となり、不幸な人々の救いを妨げている

354頁

結びにかえて

 仮に、それが本当に悪だとして、それがどういう悪なのか。それはヴェイユのテクストには書いてあります――例えば、人格が集団に「紛れ込もうとすること」の危険性などです。一方で善とはどういうものか、それも書いてあります。ただしこちらは、基本的には人格の放棄(非人称)という方向性です。つまり、私たちの思考の前提でありかつ、法の前提でもあるようなものから離れたところに提示される、そういう善です。だから、テクストのその部分をいわば処方箋として直接使うことはできません。そういうポジティブな面をこの記事で扱わなかったのは、使うとするなら、そこそこ高度な解釈を加えないといけないからです。そこには私の意見も必要です。今回はあくまで、ヴェイユが提起した問題としてネガティブな面だけピックアップしたこと――そして、対照的に表現するなら、こちらの面はほぼ解釈なしに現代に適用できることを示すにとどめました。
 それから、繰り返しになりますが「人格と聖なるもの」というテクスト読解としてはかなり焦点を絞っています。このテクストは本当におもしろくてですね……正義と権利を分けて考えるとか、民主主義は権利の側のものだとか、したがって自由もそっち側(表現の自由なんてどうでもいい)とか、政党の無意味さとか、(アーレントが念頭にあったのかどうかが非常に気になる)「労働を蔑むのは……冒瀆である」とか、(カミュが喜ぶであろうポジティブなニュアンスでの)「虚無を経験すること」とか、全集中(実際は不幸に対する「注意力」)とか、いろんな注目すべきテーマがあります。面白そうと思ったら――手にとって読んでみるしかないですね。本とはそういうものです。
 さいごに、これは哲学の側面についての私の意見・感想ですが……どうでしょう、ヴェイユの凄さが部分的にでも伝わっているでしょうか。例えば、フランクフルト学派とかの「前」ですからね。時代背景は人物紹介記事を参照していただくとして、よくここまで物事の(私にしては珍しくよい意味で使いますが)本質を捉えることができたなと、驚きます。神に祝福されていたとしか思えません。あとはまぁ、(ホルクハイマーやアドルノを思い浮かべながら)フランクフルト学派の名前を出しましたけど、同じく第一世代のフロム(『自由からの逃走』)なんて、ヴェイユと比べるとものすごぉく浅い、と思います。浅いからこそ分かりやすい……世間的にはそれでいいんでしょうが、哲学としてはそれは恥ずかしいことです。

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