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ヴェイユ:「神への愛と不幸」

 「哲学者の紹介」でヴェイユを扱えることを嬉しく思っています。ヴェイユについてはウィキペディアでも詳細に書かれています、事実関係についてはある程度の重複をお許しください。

時代背景

 最近は大戦後の哲学者を紹介してきましたが、ヴェイユは二つの世界大戦の時代に生きた人です。私にとって性別はどうでもいいことではありますが、女性です。したがってアーレントが思い浮かぶわけですが、実は同時代人なんですね。だから、フランスとドイツという違いこそあれ時代背景はすごくよく似ています。しかし、全く接点がない……はずです。探してみますがあったら訂正します。

どんな人物・なにをした

高等中学の先生になるまで

 生まれはパリ。両親は共にユダヤ系です。幼い頃が一次大戦の時期に該当して、一貫した学校教育を受けられる状況ではありませんでした。しかし、できの良いお兄さんがいたこともあり、兄と一緒にいわば独学的に学びます。
 戦後はパリに戻り、高等中学(日本の高校に相当)に入学。体が丈夫じゃなかったとか、メンタルの問題とかで何度か長期休学をとるものの、最終的には退学。大学入学の資格試験のために(誰にでも開かれている学びの場である)コレージュ・ド・フランスなどで勉強を続けます。そして資格試験に合格し、大学に通えるようになるんですが、(レベル的にはその上の)高等師範学校を目指して、その準備学級に入ります(高度の予備校といったところなんでしょうか)。受験に落ちることもありましたが、在学3年目に高等師範学校の試験に合格。女子高等中学校の哲学の先生になります。

工場労働者体験とデモ参加

 哲学の先生になったヴェイユは……ざっくいうと、とにかく組合活動・運動をします。学校側からすれば、当然困りものです。ヴェイユは(もはやお得意のといってもいいかもしれません)休暇願いを出し、ドイツ旅行に行きます。ここで二次大戦前のナチスを見ることになります。
 休暇明け、別の赴任先の学校でも引き続き組合活動。次の赴任先の学校でも組合活動。あるいは革命運動に参加。この先生の生徒だった人のコメントを知りたいものです……。まぁ、生徒にとってはいい先生だったかもしれません。でも学校からすればとても困った人です。休暇願いばっかりだすし。
 この時期、フランスに亡命していたトロツキーをかくまうために両親のアパートを提供。意見の違いによる論争があったようですが、だいぶ年上の大物革命家相手に引けをとらないのはすごいと思います。
 それで、また休暇願いを出して、8ヶ月工場で働きます。まず工場労働者の境遇への同情があってのことですが、今でいう潜入レポートといったところでしょうか(生前に刊行されることはないとはいえ)。あと、メインの仕事を休んでいる時に、雇われ仕事をするというのは……まぁ、OKだったんでしょうね。よく分かりませんけど。
 復職願いを出し、受理されます。ただ、もともとの体の弱さに加え工場労働での疲弊もあり、他人から見ても明らかに体調が悪かったようです。
 この時期のパリでのゼネラル・ストライキは、ヴェイユに大きな影響を与えます。何度もパリに行き、またその後の民衆デモには自ら参加しました。

スペイン内戦参戦から第二次世界大戦

 スペインで内戦が起こると、スペイン人民戦線に外国人義勇軍として参戦。前線に立ちたかったよう(訓練もしました)ですが、炊事係。ただ、このとき大やけどを負い義勇軍を離脱することになります。
 帰国後は、この火傷と体調不良(主に頭痛)を理由に病気休暇。治療のために入院もします。ボエシを論じた「服従と自由についての省察」はこの時期に書かれたテクストです。また、いくつかのキリスト体験といえるような経験をしますが、この記事では割愛しましょう。ただしヴェイユは生涯、洗礼を受けることはありませんでした。休暇が終わると学校に赴任しますが、頭痛で休職。もっともこれが最後の休職です。
 そして第二次大戦。ヴェイユはフランス国籍ですから、さしあたっては当時の臨時政府からの嫌がらせ(教職復職願いを黙殺など)を受ける程度です。農業をしてみたいということもあって、いくつかの農場で働きます。
 とはいえ、ユダヤ人排斥が強まっていくので、ヴェイユは、まずはアメリカ、そしてイギリスを経由してフランスに戻ろうとします。そして両親とともにアメリカ、ニューヨークに。しかし、両親をおいてすぐイギリス、ロンドンへ行きます(アーレントと違ってアメリカに亡命していることをよしとしなかったということでしょう)。
 ロンドンではド・ゴールのもと在イギリスの自由フランス亡命政府で文書起草委員として働きます(ここでも前線に出たがったそうです)。バリバリ仕事をしますが、ある日、下宿先で昏倒。「急性肺結核」と診断されます。このとき、十分に食事を摂っていたら回復したかもしれません。食事を摂れなかったのではなく、摂らなかった(拒否した)ことで餓死のようにこの世を去ります。

ヴェイユのテクスト

 ヴェイユは友人に十数冊の雑記帳を託していました。最初に出版物として編纂されたのが『重力と恩寵』。この本はいわゆるベストセラーになりました。そして名がしれていくのですが、カミュにいわば発見されることで、カミュの手で多くの著作が刊行されることになります。
 私たちには、こういう経緯で刊行されたものの翻訳書であったり、そもそもが雑記帳ですから、内容のジャンルで編集された著作集というかたちでヴェイユのテクストに接することができます。ただし、確固たる底本がないゆえに、同じ名前の本でも(訳の違いとは別の)多くの違いがある、ということになっています。

読むならこれ!「神への愛と不幸」

 そういう事情で、一冊の本ではないタイトルのかたちで示すことになりました。私は、河出文庫の『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』で読みました。この本が優れているのは、最近の訳であることと、『神を待ちのぞむ』所収の「神への愛と不幸」と比べて、後から発見された部分が加わっていることです。
 内容については、できるかどうか分かりませんが記事を改めたいと思います。私は、『アンソロジー』のこのテクストでヴェイユの哲学のレベルの高さを確信しました。同書の解題によれば、このテクストはヴェイユの代表的な論考とのことです。
 『アンソロジー』には、前期のテクストから工場体験からのもの、それから「人格と聖なるもの」も収録されています。こういう編集は、ほんとうに素晴らしいですね。文庫で手に入りやすいし。

現代的評価:★★★★★

 最高評価ですね。ヴェイユの読者は、政治的な諸テーマ、働くことについて、そして有名であろう不幸についてなど、さまざまな事柄、テーマについて現代の常識がいかに欺瞞に満ちているかを思い知ることになります。もちろん、時代遅れな部分もありますよ。そういう意味での間違いや哲学としての甘さ……それはあります。あと、なぜかヴェイユにおいては気になりませんでしたが、「神」「神」「神」とうるさいです。それでも、哲学書として現代でも参照されるべきでしょう。
 えー……たしか、アーレントも星5だった気がします。つまり、現代の常識がぶっ壊れる水準ということなんですが、ぶっ壊れ方は全く違います。全く別の哲学と言っていいでしょう。アーレントは光の側と表現しました。そういう表現を活かすとするなら、まさにヴェイユは闇の側、闇の哲学です。ただし、光と闇は対極ではないですよ。哲学の筋が違うということです。

さいごに

 別にアーレントと比べる必要はなくって、話の流れでそうなっているだけですが、ヴェイユの特徴づけの参照軸としては、分かりやすい対象かもしれません。
 アーレントは大学で学び大学で講義もしたという点ではアカデミシャンです(もちろん普通のアカデミシャンと比べるとジャーナリストです)。ヴェイユは、あくまで女子校(高校)の先生です。アーレントは哲学のテクニカルタームまみれのテクストを書きますが、ヴェイユは、哲学に対しては非常に限られた範囲の参照でなおかつ頻度は多くありません。アーレントは政治を最上位に置き、(仕事を挟んで)労働を下に置きましたが、これについてはヴェイユは全く逆と言えるでしょう。
 生き方(人生)についても、とても対照的です。アーレントは知的な人生の範例のようです。それは戦争(むしろ戦線といったほうがいいかもしれません)との距離でもあります。ヴェイユは戦線に出れないことを歯がゆく思いながらそれに最も近いところにいました。ヴェイユから見れば、アーレントの高潔な選択は、妥協のように見えるほどです。
 妥当かどうか不安ですが、不幸についても並べてみましょう。ほぼ完全に同時代人で同じ時代背景を生きたユダヤ人。アーレントは、無国籍であったことから、人権の不完全性を暴くのですが、ヴェイユはいったいどういう直観か分かりませんが、かなり早くからそんなものは虚構で、真剣に考慮する対象ではないことを知っています。そして(早死であることを別にしても)、ヴェイユの不幸に対する実体験をともなったまなざしはホロコーストサバイバーとそんなに違わないレベルのものです。
 カミュは、おそらくヴェイユのテクストに実存的なものを感じたでしょう。それはサルトルには感じられなかったものだと思います。つまり、ヴェイユの実存的な側面は不条理の様相だからです。しかし、ヴェイユの哲学は明らかに実存主義を(その最高であるカミュを)越えていて、それに着想を得たイタリアン・セオリーの哲学とて、ヴェイユの素朴な直観をアカデミックな哲学で傍証しているだけの部分が多くあるといえるほどです。
 キリスト教徒にとってもヴェイユは偉大な参照対象でしょう。そのように読んでいる人は、私の身近なところにもいます。間違っていないし、むしろ正しいかもしれません。私は哲学として、しかし、アカデミックな哲学ではない哲学としてヴェイユを読んでみたいと思います。多少はキリスト教の知識が必要にはなりますが、私でフォローできる程度ですから、多くの人にとって読解上の問題にはならないでしょう。
 それほど素朴で(解題の言葉を借りれば)「鬼気迫る筆致」のテクストは第一級の哲学であり、観念的ideationalではないからこその、現代的意義を持っています。普通はどんなテクストであっても時間とともに意義は薄まっていくものです(だから古典の多くは現代の諸問題の解決に何の役にも立ちません)。ヴェイユのテクストは……おそらく神に祝福されているのでしょう。キリストを呪いにすることによって。

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