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[読書ノート]19回目 2月8日の講義(第一時限)

講義集成13 1983-84年度 43頁~70頁

今回のまとめ

  • みんなが恐れなく発言できるなら、そこに勇気の居場所はない

  • 民主制に欠けているのは「倫理的差異化」

  • 王制や貴族制は可能だが民主制は不可能@アリストテレス

 講義の最初にフーコーは、都市国家へと方向づけられ関連づけられたパレーシアから、エートスへと方向づけられ関連づけられたパレーシアへの変容を通じて、真なる言説の実践形式としての西欧哲学がどのように構成されたかについて、少なくとも根本的特徴を示したいと述べる。
 (前年度の講義で扱われた)紀元前四世紀の哲学や政治にかかわる文献のなかに現れる、パレーシアの危機については、それを2つの大きな現象として特徴づけることができる。【今回はそのうちの1つ、民主的パレーシアに対する批判について検討される】

民主制の自負への批判

都市国家にとっての危険性

 民主制において、発言する自由は地位にもとづく特権として行使されるものではなくなる。民主政におけるパレーシアとは、一人ひとりが自分の意見を語り、自分の個人的な意志に適うことを語り、自分の関心ないし自分の情念を満足させることを語る気ままさのこと。
 都市国家にとっての危険とは――よき演説者であれ悪しき演説者であれ、打算的な人々であれ献身的な人々であれ、誰にでも与えられた発言の自由においては、真なる言説と偽なる言説、有益な意見と無益ないし有害な意見のすべてが、民主制のゲームのなかで並置され、混ぜ合わされること。万人にとっての気ままさとしてのパレーシアがある以上、真理を語る勇気としてのパレーシアはありえない。

個人にとっての危険性

 (多くの人が様々な意見を述べるような)喧噪のなかで、その言葉に耳を傾けてもらい、賛同を得て、従われ愛されることになるのは、どのような人々だろうか。それは、民衆に気に入られる人々、民衆が望むことを語る人々、民衆に追従を言う人々である。逆に、その他の人々、人の気に入ることを語るのではなく真および善とは何かを語る人々は、その言葉に耳を傾けてもらえないだろう。
 それだけでなく、彼らはネガティヴな反応を引き起こし、苛立たせ、怒らせることになる。つまり、気高い理由によって語る人間、そしてそうした気高い理由によって万人の意志に逆らう人間は、死の危険に身を晒すことになる。

よきパレーシアに場を与えることができないものとしての民主制

 これらに、パレーシア概念の分裂を見ることができる。一方において、この概念は、誰彼かまわず万人に与えられた自由、好き勝手なことをすべて語る危険な自由として現れる。他方には、よきパレーシア、勇気あるパレーシアがあるが、それを用いる個人にとっては(命の)危険があるものである。
 民主制がパレーシアに場を与えるとしたら、そのパレーシアは都市国家にとって危険な自由でしかありえず、パレーシアが真なることを語ろうと企てる勇気ある態度であるとするなら、そのパレーシアは民主制のなかに場を持たない。(フーコーは、このような民主制への批判や告発が見いだされるテクストとしてデモステネスに言及している)

民主制において真なる言説が不可能なのはなぜか

 しかし、そもそも民主制においてはなぜ、どのようにして、いかなる理由によって真なる言説と偽なる言説との分割がなされえないのだろうか。私(フーコー)が思うに、民主制において真なる言説が無力であるのは、真なる言説それ自体の無力さではない。それは民主制の構造そのもの(真なる言説が出現し自らの真理を価値づけようとする際の制度的枠組み)に帰すべきものであろう。
 民主制は真なる言説の場所ではありえないというテーマは、紀元前四世紀のあいだずっと批判され広まることになるもの。そうしたすべての批判の中心的論拠を捉え直すために、最も単純で、最も図式的で、最も露骨で、最もおおざっぱなやり方……しかし、最も意義深いやり方で表明されているテクスト――『アテナイ人の国制』を参照する。これは、長いあいだクセノポンのものとされてきたものだが、実は【当時の】貴族階級に由来する攻撃文書である。【フーコーがざっくり紹介するその内容については割愛します。なぜならその要点が以下で整理されるからです】
 このテクストおよび他の多くのテクストの底流にある原則を――そして私には、ある意味において、西欧世界における政治思想にとっての不変の母型であり脅威であったように思われる原則を――以下のように要約することができる。

① 量的差異化にもとづく対立原則

 都市国家においては個々人が、数がより多いか、より少ないかという事実によってのみ根本的に特徴づけられる二つの大きなグループに分けられるということ。「群衆」か「若干の人々」かという分割こそが、都市国家において誰が統治すべきなのかという問題を提起する。つまり、都市国家の統一が分割されるという原則。

② 倫理的・量的な同型性の原則

 (多数派と少数派という対立)そうした分割が、「優れた人々」と「劣悪な人々」との対立に一致するということ。人々を量的に分割する線と、よき人々と悪しき人々との倫理的な境界を画定する線とが重なり合うということ。(フーコーは、この原則の名称について「このような乱暴な表現を用いることをお許しください」と述べている)

③ 政治的外在因の原則

 一方において、都市国家における優れた人々にとってよいことは、都市国家にとってもよいこと(優れた人々にとっての益は、都市国家の益)である。これに対し、劣悪な人々にとってよいことは、都市国家にとっての害悪である。つまり、優れた人々と劣った人々との倫理的境界画定が、一つの政治的区別に一致するという原則。

これらから帰結するもの

 そこから得られる帰結は、都市国家にとって益となり、有用であり、ためになること(政治的言説の次元における真なること)は、万人にとっての発言の権利として理解された民主制の形態においては、語られえない、となる。【言い換えると】もし、一つの都市国家、一つの政治構造のなかで、真なることが語られるためには、多数派と少数派との分割でもあり、よき人々と悪しき人々、優れた人々と劣悪な人々との倫理的分割でもあるような、そういう分割が不可欠であるということである。
 よく理解しなければならないのは――万人に与えられた発言の自由は、真なることと偽なることを混ぜ合わせ、追従者たちに有利にはたらき、語る人々を個人的な危険に晒すおそれがある……こうしたことは確かにそのとおりだが、それははるかに根本的な構造上の一つの不可能性によってもたらされる効果にすぎないということ。(テクストの読解によって得られた帰結とは)民主制という形式そのものが、優れた者を劣悪な者に服従させ、諸価値の秩序を反転させ、無秩序を設定し、間違いを維持することによって、「真なることを語ること」に場を残しておくことのできないものとされているということである。
 以上を出発点として、図式的でおおざっぱなものになるが、プラトンとアリストテレスを検討することができる。

プラトンによる反転

 民主的諸制度の方から見るなら、その諸制度が「真なることを語ること」に耐えることができないのなら、それ(民主制)を(都市国家から)除去せざるをえない。他方、哲学者および哲学を特徴づける倫理的選択から考えて「真なることを語ること」を価値づけるなら、民主制は除去せざるをえない。【つまり政治の方から考えても哲学の方から考えても結論は同じ】
 プラトンによる反転が示すのは、統治がよいものでありポリテイアがよいものであるためには、それらが真なる言説にその基礎を置き、そうした言説によって民主派と民衆煽動家デマゴーグが追い払われる必要があるということ。

アリストテレスの躊躇い

 プラトンの意見はよく知られているもの。私(フーコー)が強調しておきたいと思うのはアリストテレス(の躊躇い)の方。アリストテレスは、先の諸原則を、大いに練り上げ、変更し、変形させて、ある程度まで無効にした。(参照される文献は『政治学』第三巻)

① 裕福な人々と貧しい人々

 (多数派と少数派の分割の変更として)「裕福な人々」と「貧しい人々」との対立を問う。例えば――裕福な人々が多数派であるような都市国家を(現実的な可能性として)考えることはできないだろうか。そのとき、多数派(裕福な人々)に権力が与えられるような国制として民主制を定義するとして、そこに民主制があることになるだろうか。逆にもし、少数派(貧しい人々)であるとしたら、彼らの権力を民主制と呼ぶことができるのか、それとも【少数派の統治なので】貴族制と呼ぶべきなのだろうか。そして、アリストテレスは、ある程度までギリシアの政治思想全体を転倒させることになっていたかもしれない回答として――民主制を特徴づけるのは、貧しい人々の権力である。そして、たとえ彼らの方がはるかに少数であるとしても、彼らが権力を行使しさえすればそれは民主制である、とする。

② 市民の徳と有徳の士の徳

 多数派=劣った人々と少数派=優れた人々という分割についても、問いに付す。市民の徳と有徳の士の徳とを区別すべきではないか。政治に特有の徳があるのではないか……等々。こうした問いに対するアリストテレスの回答は複雑で、私(フーコー)は詳細のすべてに立ち入るつもりはないが、少なくとも倫理的・量的な同型性をそのまま受け入れることはしていないということ。

③ 自分の利益のための統治と都市国家の利益のための統治

 優れた人々にとっての益=都市国家の益。劣悪な人々にとっての益=都市国家にとっての害。これらについて、アリストテレスは、君主制だろうと、貴族制だろうと、民主制だろうと、それぞれに二つの方向性が十分にありうるという。【君主制において、君主が自分の利益だけにはしることもあれば、国家の利益のための統治をすることもある……しかし、それはどの統治形態も同じということ】
 つまり、アリストテレスは政治的外在因の原則を認めていない。逆に、いかなる統治形態であろうと、統治する人々は、自分の利益のために統治することもできれば、都市国家の利益のために統治することもできる、とする。

統治形態の名前の整理/民主制の不可能性

 (フーコーは、注釈者たちによって長いあいだ検討されてきたにもかかわらず、決定的な解答が得られていない有名な一節として『政治学』第三巻、第七章1279a-bに注目する)この一節のなかで問題となっているのは、さまざまに異なる統治形態に名を与えること。まず、「君主制」と「王制」のあいだに区別を設ける。王制とは、公共の利益を考慮に入れる君主制タイプの統治であるとする。次に、若干の人々が都市国家とそのすべての構成員の益を気にかけることになる統治のことを「貴族制」と呼ぶ。そして、多数派が統治する第三の統治形態については……名前を付けることができない。
 アリストテレスはその理由を――ただ一人の個人ないし少数の人々が徳において他の人々に勝ることは可能であるが、それに対し多数派の人々が「あらゆる種類の徳において申し分のない水準に達する」のは非常に困難だから、としている。この謎めいたテクストは次のようにしか理解できないと思われる。すなわち、大勢の人々が君臨する民主制の形態に関しては、大勢の人々が自分自身の利益とは別のものを目指すなどということを現実に期待することは、不可能もしくは非常に困難ということ。(言い換えると)多数の人……彼らが都市国家を統治している人々であっても、彼らのうちに「真なることを語ること」が可能で、かつ、そのなかに都市国家の利益が認められることになるような倫理的差異化、倫理的分割、倫理的特異性を見いだすことはできない。名称がありえないのは、それがおそらく具体的に存在しえないものだからだろう。これは、構造上【理論上】の不可能性ではなく、しかし避けて通ることのできない不可能性である。

今回は以上です。講義の最後にフーコーは(今回検討したものを手がかりとして)「ここからただちに我々は、エートスおよび倫理的差異化の問題へ……遭遇することになります。」と述べています。しかし、差し当たって次回は、冒頭に示されたパレーシアの危機についての2つの大きな現象の、もう一つ――パレーシアが可能で、それにとって好都合な場所についてがテーマになります。

私的コメント

 なぜ民主制ではパレーシアが無理なのか。ここでポイントを振り返る必要がないほど、きれいにまとめられている回だと思います。そして、プラトンの見解はこれまでの講義の通り。新しく取り上げられるアリストテレスの見解は……なんというか、私のアリストテレス嫌いを差し引いても、無意味な複雑化をしているだけと思うのですが、どうでしょうか。少なくとも、最終結論はプラトンと一緒……というより、プラトン以前の伝統的見解と同じですし、民主制が無理な理由(倫理的差異化ができないから)というのもトートロジーです。民主制の少なくとも理論的な可能性を探ったと好意的に捉えたとしても、結局不可能と考えているし、(こちらの方が重要ですが)だからこそアリストテレス本人がその実現に向けて行動する、ということは全くなく、専制君主に媚びへつらった上に、政治情勢が悪くなったらさっさと国外に逃亡しています。このことは、アリストテレスの哲学で民主制を考慮することができない、というより、思想の根本のところで(勇気としての)パレーシアを重視しないというのがアリストテレス哲学の特徴であり、そういうネガティヴな意味で現代との連続性があるんだと思います。まぁ、いいでしょう。今年度の講義が進む中で明らかになりますが、フーコーにとっても注目すべきは、アリストテレスとまさに正反対のディオゲネスですから。
 他にコメントとしては――ここで何らかの答えを出すものではありませんが……なんで私たちの世界(社会)は、大小様々なレベルで民主主義(民主制)推しなんでしょうね。あるいは仮に推しであることはいいとして、なぜそれが「正義」(あるいはその可能性)と結びつけられて語られ続けているのでしょう。歴史的には、一度答えが出ています(それは「正義」ではなかった=ファシズムを生んだ)。私たちは、その歴史的出来事の手前にいるのか、只中にいるのか、あるいは事後にいるのか……いよいよ分からなくなってきました。
 たまに(あるいはよく?)「それは、他のもっといい政体(方法)を見つけていないからだ」という内容のことを言う人がいますが、それは端的に嘘だし、なによりとても不誠実な意見だと思います。あるいは、最も控えめに言って、その発言にはパレーシアがないです。控えずに言うなら、追従の言説以下の(アーレント流で表現すれば)無思考です。

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