左利きエトセトラ

昔から人と違うことが好きだった。
人と同じであることには退屈さを覚えた。
無理して違うように振舞うことまではしなくとも、クラスで一人だけ違う意見だったりしたときは、密かに喜びを噛み締めたものだ。
そのような性格的傾向がどこから来たのかを考えたとき、たどり着くのは「左利きである」という事実だ。

食事をする、文字を書く、服を着る、お茶を注ぐ。
ありとあらゆる日常的動作が多数派とは異なる動作を強いられる左利き。
人によってはそれをコンプレックスと感じるようだが、自分の場合は違った。

正直を言えば、左利きであることで実際的に得をすることは何もない。
むしろ面倒なことの方が多い。
何気ない動作が右利きを前提に作られている社会において、不自由や不便を強いられるのは、いつも左利きの方だ。
それでも左利きであることが嬉しいのは、左利きに漂う、どこか普通とは違う特異さ、特別さだ。

「あ、左利きなんですね」

などと言われたら、単純な自分は思わず小躍りしたくなってしまう。

右利きと左利きでどこまで性格的・性質的な違いがあるのかはよく知らない。
でも、左利きが少数派であることから、人格形成上、何らかの影響があってもおかしくはない。
少なくとも、少数派であることと、それにポジティブな意味づけをしていることの二つが重なったとき、アイデンティティに好影響を与えるとは言えるだろう。

僕が子供の頃は、左利きは「ギッチョ」などと呼ばれ、やや異質な存在として疎まれることもあった。
わざわざ右利きに強制されることもあったと聞く。(大阪だけだろうか?)
だとしたら、もっと左利きであることに嫌悪を覚えてもよかったはずなのだが、それを喜んだということは、やはり自分には左利き的な「変わり者」気質がもともと備わっていたということか。

何かと多様性が叫ばれる現代、年齢、性別、障害などがテーマに上がることはあっても左利きが話題に上がることはない。
それは左利きであることが不自由や不都合な場合だけでなく、ときとして有利に働くことがあり得るからだろう。
(例えば左利きが重宝されるスポーツのように。
例えばクラスで意味なく目立てるように)

しかし、保守的なメディアでは、必ずしも歓迎されないこともあるようだ。
昔、NHKのEテレで放映されていた
「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」
という子供向け料理番組で、子役時代の福原遥さんは左利きであったにも関わらず右手で料理をしていた。
役者として右利きを演じただけといえばそれまでなのだが、せっかくなら左利きのヒロインであってもよかったのではないか。
もし今のNHKなら右利きと左利きの登場人物をうまく設定してくれたかも知れないし、そうあってほしいと願う。

幸い、僕がこれまで出会った左利きの人たちは、それを自分の特性として自然に受け入れている人ばかりだった。
でも、そのような人が全てでないことも想像できる。
だから、左利きの人を見つけても、

「あ、左利きなんですね」

などとは言わず、そっと見守っていてほしい。
まして「ギッチョ」などと言って、見下さないでほしい。
そして僕自身も、左利きであることに頼らず、個性や独自性を主張できる人間でありたいと思う。