死にたい気持ちの行先

内憂外患です。こんにちは。

皆さん死にたいと思って生きていますか?

急にこんなことを聞くのはおかしな事でしょうね  
僕は毎日死にたいと生きたいがせめぎ合っている、そのちょうど真ん中に漂って生きています。  

死にたい気持ちというものは時間が経てば育ってしまってどうにも出来なくなるものです。 

僕だって何も自我が芽生えた瞬間から死にたいと思っていた訳では無いのですから。数年、十数年掛けて育った希死念慮。どこへどのようにして逃がせば良いのか。

希死念慮。どのようなものとして捉えますか。
僕には永遠と注がれる水の様に思います。絶え間なくずっと注がれる死にたいという気持ち。そこに少しの憎悪と嫌悪、罪悪感……年齢を重ね、様々な感情を知るとその水に色がついて行くのです。  
僕の水はもう闇より深い、漆黒になってしまっている。そんな気がするのです。 
膨大な量の水にたった一滴、黒が落とされたところで色は変わらないでしょう。けれどそこに確かに黒は存在するのです。そうして幾年か黒を落とされ続けた水は黒に染まってしまう。
どうして黒に染まる前に止められなかったのか。
1度染ってしまえば透明になることは叶いません。
僕の希死念慮の色は消えることは無いという事です。

少し話が逸れました。僕には今年で16になる予定だった妹が1人、いました。もう13年になります。妹を失って母は少しおかしくなったように思います。異様に過保護になりました。もうお前しかいないんだから、それは母の口癖です。妹がいればきっと僕なんぞ放って置かれたことでしょうに…。
 
何やら複雑な我が家に僕は疲れきってしまいました。平日は仕事に、休日は祖父母の家へ行き、酒乱の祖父の相手をして、飲みたくもないアルコールを煽る。休日なんてよく言えたものです。
やっと自宅へ帰れば次は母の愚痴を聞き、機嫌を取らねばなりません。

この世界に僕よりも酷く辛い境遇の方は多くいると思います。ですが僕にとってはもうとっくに限界なのです。それを誰にも言えない辛さ。それが僕の希死念慮の源なのでしょう。

身近に死にたいと嘆く人を見たことはありますでしょうか。生きたいよりも死にたいが勝ってしまってどうしようもなく悲しくなるもので、それでもわずかな希望を捨てないために自傷する様になる……。そんな人がいればどんなことが出来るでしょう。死にたい人に生きろというのは生きている人に死ねと言うことです。生きていて欲しい。そんなの生きていることが楽しい人のエゴでしかないでしょう。お前が死んだら俺も死ぬ、なんて言った日には死ぬことも出来ず生きることも出来ない廃人になってしまいます。死にたい人がいれば、まず話を聞いて欲しい。否定せずに最後まで、こんなに辛いんだと言うことを受け止めて欲しい。解決にはならないけれど、それが安心する人もいるはずです。希死念慮、誰もが抱いている感情かも知れません。それが何色なのか、真っ黒に染まる前に出来ることがあるやも知れません。   
どうか皆様の日々が彩りある日々でありますよう

内憂外患。

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