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映画『Dr.コトー診療所』を見て来ました☆

 天皇・皇后両陛下も見たという映画『Dr.コトー診療所』を見に行ってきました。

 日本の西の端にあるという絶海の孤島の志木那島に、20年前、医師として東京からやって来た五島健助(=コトー)の島での活躍を描く映画です。

 この映画は、Dr.コトーの医師としての物語の行く末を描いたものですが、ネタバレにならない程度に申しあげると、Dr.コトーは、自分の重篤な状態を押して、島民のみなさんの命をひたすら助け続けるのです。

 東京から、研修目的でやって来た若い医師は、Dr.コトーの献身的な活動を見て、自分にはとてもできないと感じるのです。

 物語ですから、美化され過ぎているのかもしれませんが、医師の仕事って、本当に大変なんだな、って、改めて思いました。

 バブルの頃、「3K労働」という言葉がはやりましたが、これは、「きつい・汚い・危険」の頭文字「K」3つを取った言葉で、労働条件が厳しい職業のことを言いますが、医師の仕事って、まさにこれじゃないかと感じました。

 もちろん、医師は、みなに尊敬される職業であり、高収入の代表格ですから、単に「3K労働」だから、敬遠されるという訳ではないのはよくわかります(>_<)。

 Dr.コトーは、全身全霊を使って、魂の限り、島民の命を救おうとするのです。

 私は、東京から来た若い医師の気持ちにどちらかというと賛成で、「そこまでの自己犠牲のうえに、人を救うことは、自分にはできない」と、感じてしまうのです。

 「自己犠牲」って、周囲のためにも、自分の誇りのためにも、ある程度、必要なんですが、自分の命あっての物種ですし、ましてや、持続可能性がありません。

 私は、この映画を見て、「医師ってすごいな」と思う人はいるとは思いますが、逆に「自分にはそこまでできないな」と思う人の方が多いのではないかと感じました。

 私は、医師も生身の人間ですから、単なる一方通行の自己犠牲だけの上に成り立つ患者との関係の構築は、土台無理で、もっと権力とか、名声とかを目指す医師の方がずっと多いのではないかな、また、それがごくごく自然かな、と思ってしまいました。

 話は若干ずれるのですが、自宅に戻ってから、『人生を半分あきらめて生きる』(諸富祥彦もろとみよしひこ著・幻冬舎新書刊)を通読しました。

 この著者は、医師ではないのですが、大学教授で、職業カウンセラーの方です。

 この本の中で、日本人は、「あきらめない」・「頑張る」・「普通に」教に、毒されているとし、あきらめない・頑張る・普通に、を目指すあまり、人生に疲れ切ってしまっている人が多過ぎると指摘しています。

 そのため、人生において、あきらめることを半分くらいにして、残りの半分だけ、本当に必要なことを頑張ろうという提案でした。

 ちなみに、「あきらめる」は、現在では、「何かへの思いを仕方なしに断念する」という消極的な意味で使われていますが、そもそもは「諦める」という漢字は、仏教用語で「諦観たいかん」、「四諦したい」などと言われるように、「ものごとを正しく、あるがままに見て明らかにしていく」「明らかにする」といった積極的な意味合いの言葉だったとか。

 それが、自分の置かれた現実から目をらさず、つぶさに見ることで、思いを断たざるをえなくなることがしばしばあることから、現在のような意味合いで使われるようになったとか。

 思うに、映画内のDr.コトーは、どこかのタイミングで、この半ば「あきらめる」という観点が、消極的な意味であれ、積極的な意味であれ、必要だったんじゃないか、そんな風に感じてしまいます。考え過ぎでしょうか。

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