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備忘録『くらしのアナキズム』松村圭一郎 著(ミシマ社 2021)

【備忘録 2,673 文字】

ミシマ社の本、やさしい装丁(尾原史和さん)。
昨年12月、料理研究家 土井善晴さんの『味付けはせんでええんです』という文明論を読んだ。「料理という行為が、自然と人間をつなぐ。」
『くらしのアナキズム』は、この料理文明論とも、つながっている。
また、日本政治で孤軍奮闘されている「れいわ新撰組」ともつながっている。ということは、虐げられている多数の日本人とも、世界の「国民国家」の下で生きる人達につながっている。

アナキズム=無政府主義という捉え方を覆す画期的論考!

『くらしのアナキズム』帯

著者は、1975年(ロスジェネ)熊本生まれの、文化人類学者。
様々なものを吸収されているが、主として、アメリカの人類学者 デヴィッド・グレーバー(故人)、ジェームズ・C・スコットらの言説を骨として
この本を書かれている。

 アナキズムは秩序を壊す思想ではない。災害などで政府が一時的にせよ、たよれなくなる事態は現実に起きている。そのとき秩序は上から与えられるものではなくなる。
 モースが考えたように、いかに自分たちの手で下からそれをつくりだせるか。そんなことができるはずはないとあきらめるまえに、じっさいにそうやってきた人類の営みからその隠れた可能性を探る。それがアナキズムと人類学が結びつく理由である。

『くらしのアナキズム』 第1章 人類学とアナキズム P. 23

今の社会にある権力的支配に抵抗することをやめてしまった静かなアナキズムに転化するのでもなく、権力的支配関係をおしつぶすもう一つの権力的支配をめざすことでアナキズムからそれてゆく道をとるのでもない、アナキズムの道すじはどのようにしてあり得るか。

鶴見俊輔 著『身ぶりとしての抵抗』 P. 19

 ホッブズは、戦争状態を抑止し、危機に対処するためにこそ、主権国家が必要だと説いた。
 だが、歴史的にみれば、国家は人民を守る仕組みではなかった。人びとから労働力と余剰生産物を搾りとり、戦争や疫病といった災厄をもたらす。
国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だったのだ。

『くらしのアナキズム』 第1章 人類学とアナキズム P. 37

ぼくらの暮しを、まもってくれるものは、
だれもいないのです。
ぼくらの暮しは、けっきょく、
ぼくらがまもるより外(ほか)にないのです。
考えたら、あたりまえのことでした。
そのあたりまえのことに、気づくのが、
ぼくら、すこしおそかったかもしれませんが、
それでも、気づいてよかったのです。 

ぼくらの暮しを
おびやかすもの
ぼくらの暮しに
役立たないものを
それを作ってきた
ぼくらの手で
いま それを
捨てよう

(『暮しの手帖』を創刊した編集長)花森安治 著『灯をともす言葉』 P. 64-65

なんのために国家があるのか。クラストルは、「未開社会」が国家をもたないのは、国家をもつ段階に至っていないからではなく、むしろあえて国家をもつことを望まなかったからだという。一部の者だけが権力をもち、人びとを支配するためにその権力がつかわれることを拒絶したのだ、と。

『くらしのアナキズム』 第3章 「国家なき社会」の政治リーダー P. 95

グレーバーはいう。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。むしろ民主主義と国家という強制装置は不可能な結合であり、「民主主義国家」とは矛盾でしかない、と。

『くらしのアナキズム』 第3章 「国家なき社会」の政治リーダー P. 99

イリイチは、急速に社会が大量生産・大量消費という産業主義に飲みこまれ、環境やコミュニティの破壊といったさまざまな問題を加速させていることを危惧していた。こうした問題の解決に科学技術が投入され、さまざまな商品やサービスが発明されることが、さらに人びとから自立共生の機械を奪い、問題を悪化させている。
 人間が産業主義と機械の奴隷になり、与えられた商品を消費するだけの存在となる。そして自由や自治が失われる。

第6章 自立と共生のメソッドー暮らしに政治と経済をとりもどす P. 201

政治や経済を動かす責任や能力が自分たちにあると自覚する必要がある。
政治を政治家まかせに、経済を資本家や経営者まかせにしてきた結果、
ぼくらはみくびられ、やりたい放題にやられてきた。
政治と経済の手綱を生活者が握り、
よりよいやり方をみずから体現していく。
その実践が国のやることに自信をもってNOを突きつける根拠にもなる。

第6章 自立と共生のメソッドー暮らしに政治と経済をとりもどす P. 223

国家は暮らしのための道具にすぎない。

第6章 自立と共生のメソッドー暮らしに政治と経済をとりもどす P. 224


今まで人類のゴールを考えてみて。支配欲の強すぎる権力層によって、人びとの多様性がなくなり、全体主義化していくなら、人類に未来は無いし、他の生物にとっても、人類は早々に滅びた方が良いかもしれない、と考えたりもする。

でも、人間のつくる「組織」が経年劣化していくと考えた場合、現代の国民国家は、その劣化状態にあり、最悪の状態だと考えてみる。
「国」という概念が存在しなかった状態はどうであったか。
戦争状態にあったか。
「未開社会」と言われてきた「組織」が、ほんとうは「国」という支配装置が発生しないような抑制技術を持つ「公平な社会」だったとしたら、
そこへの回帰を考えたい。
国民国家を経由した以上、直線的な回帰は出来ないだろう。

まずは、国という存在を疑うこと。ホッブスら過去の知識人が言っていたことも疑わしいこと。日々暮らしていくことこそ、政治であること。また、経済であること。国を道具として使いたい。最終的には、国という制度をなくしたい。アナキズムは、人びとがよりよく生きるための知恵だろう。


著者の前作『うしろめたさの人類学』を読んだ当初は、受ける感銘があったはずだったが、記憶は薄れてしまった。今回、「れいわ新撰組」の動画を観てから、読んだこともあり、心地良く吸収出来た。
著者が影響を受けた人類学者の「アナキズム論」も読んでみたい。

<<引用文献>>
(・・・)
クラストル『国家に抗する社会』
(・・・)
グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』
(・・・)
スコット『実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』
(・・・)

『くらしのアナキズム』 引用文献 P. 234-236


三日前、傘籤さん(note)が、グレーバーの最後の本『万物の黎明』(デビッド・ウェングローブとの共著)を取り上げられていた。いいね!