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読んだ「数学する身体」森田真生 著(新潮社 2015)

千夜千冊:1831夜。
千夜千冊エディション(角川ソフィア文庫)で、
「性の境界」が出されたので、次のステージに移っている。

「数学」です。

「算数」は、得意だったんだけどなぁ。。。それも嘘ですが。

社会人になって、「数学」の本を読まないですよね。

でも、著者は、なんと、
中学2年生の時に、
武術家・甲野善紀さんの「身体的知性」に触れているのです。

どいうこと?
かは、分かりませんが、いずれにしろ、
「身体」の感覚を大切にしているということです。

数学は、今では、頭の中で練り上げる概念となってますが、
当初は、身体の延長としての道具だったわけです。

前置きが長いですが、著者の目論見を抜き書きしておきましょう。

これは、数学に再び、身体の息吹を取り戻そうとする試みである。

まえがき P. 2

全く想像がつかない、かな。
著者は、あの数学者「岡 潔」先生の意志を受け継ぐ者です。
数学史を語りながら、「生」の根底的なものを話ているのです。
ひとつの数学史ですから、数学ではなく、ビブん・咳ブンもありません。

私が興味を持って赤線をひいたところは、
だいたい主筋からは外れていきますが、抜き書きしておきましょう。

「永遠に死なない」ことを考えていた建築家「荒川修作」氏の話をしながら

「私」というこの感覚も、
実は身体的な行為によって構成されたものに過ぎない。

第一章 数学する身体 P. 45

という前振りをし、しばらくして、
「ミラーニューロン」というものの話を持ち出して、
他人への共感が起こってくるが、
例えば、「痛み」が伝染する事が無いのは、皮膚のおかげ(?)
ということで、ラマチャンドラ(脳科学者)の言葉を引用する。

あなたの意識と別のだれかの意識をへだてている唯一のものは、
あなたの皮膚かもしれない

第三章 風景の始原 P. 137

それを受けての著者の言葉。

脳の中に閉じ込められた心があって、それが環境に漏れ出すのではなくて、
むしろ身体、環境を横断する大きな心がまずあって、それが後から仮想的に「小さな私」へと限定されていくと考えるべきなのではないだろうか。

第三章 風景の始原 P. 137

著者は鈴木健氏という方に会われ、
文系から数学系に転向されたのだとか。
となると、右脳と左脳をつなぐ「脳梁」も
女性のように太いのではなかろうか。
(一般的に、男性より女性の方が、脳梁が太いと言われている、
 と記憶している。naka)

そう言えば、泣けた箇所があった。岡潔さんの言葉の引用。

「治宇二郎さんは1936年3月22日に亡くなったが、
 このあと私は本気で数学と取り組み始めた」

第四章 零の場所 P. 153-154

岡潔さんは、中谷治宇二郎さんと、心の友であったのだと思う。
亡くなった治宇二郎さんとも、心の中で話しをし、
数学に邁進することになったと思うのです。
肉体は死しても、心の友は死なず。
そういう方と出会える奇跡は、この世の宝でしょう。
それを想像して泣いた。
(本の主筋からは外れますが。)

この本の内容(?)はここで終わります。
もし、数学が苦手だったら、読んでみるのも、ひとつのメリットがある。
不得意を取り込むことで、世界への視点が変わる、はず。

私が、千夜千冊を読み始めたのは、
自分の興味で、次々に本を選んでいっても、
いわゆる枠外の本を手にすることは無い。

自分の思考パターンがある程度決まってしまうので、
想定外の本は読まなくなるのだ。

ということも考え、
千夜千冊を読んでいるが、まぁ、実際のところ、
視野がひろくなったかどうかは分からない。
やらないよりはマシだと思うが。

自分を納得させながら、なんの本を読んでいくか、
どう生きていくかも含め、選択した人生を歩むことになる。

でも、自分や自我が、主なるものでなく、副次的なものであるとしたら、
出来るだけ取っ払った方が、世界が拡がりそうでは。
日頃、自然と認識しているものも、自分の身体も、
ひとつながりの自然であり、
それだからこそ、朝焼けや夕焼けの美しさに感動し、
鳥や花なんかも愛でて、見ることに没頭するのかも。

というニュアンスのことも、本に書かれていたような。

ではまた。(予定より長くなった。)