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16 長名話の縁起~寿限無への道程|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇

笑福亭 梅香 バッシヤチャリヤ

長名話の縁起を説く前に、多少考証めいたことも書いておこう。まずは復堂が書生時代に「長名話」を聞いた「新京極六角の笑福亭」という木戸銭四銭の落語の定席について。この「笑福亭」は京都でも有名な寄席だったらしく、菊池真一氏の研究によれば、『京都日出新聞』明治二十一(1888)年八月一日に「新京極通り六角下る笑福亭」の記事があり、その後もたびたび新聞紙上に登場する*1。長名を話した「煙草を輪に吹く事の名人で梅香」という落語家だが、こちらは明治四十(1907)年七月の桂派・三遊派合併落語相撲見立番付の西前頭として「梅香」の名が見える*2。少々時期が下っているので、復堂が聴いたのは先代やもしれぬが、実在した落語家に間違いない。

そして復堂先生に木戸銭四銭の落語で泣かされてしまった梵語学者バッシヤチャリヤであるが、彼はバッタチャリヤ(Bhattacharya)姓のバラモン階級で、ベンガル州出身のパンディット(サンスクリット文法学者)であった。「マックス・ミューラーの師匠」云々は分からないが、アディヤールの神智学協会本部にあったオリエンタル・ライブラリー(Oriental Library)という文書館の館長を長年務めていた人物らしい。『神智学徒(The Theosophist)』一八九〇年一月号に「Pandit N. Bashya Charya」の訃報が掲載されているので、彼は野口復堂と出会った直後に亡くなったようだ。極東の仏教国から伝えられた「長名話」のサンスクリット語は彼にとって文字どおりの冥土の土産となったのではなかろうか*3。

長名話の系譜

さて肝心かなめの長名話である。やたら長い名前を持った人物が登場するオハナシというのは落語以前に民間説話として広く日本全土に分布しており、咄の筋は大同小異である。鎌倉時代に無住(アナガーリカ!)法師(1226-1312)が記した『沙石集』にも長名の尼僧の説話が収録されている。元禄時代の噺本『軽口御前男』巻二(元禄十六年大坂板)には、如是我聞【にょぜがもん】と阿耨多羅三百(貘)三菩提【あのくたらさんみゃくさんぼだい】とそれぞれ名前を付けられた兄弟が川に流されるドタバタ話が載っており、阿耨あのく多羅たら……は長名ゆえ助からなかったという下げがついているあたり、復堂先生の語った「長名話」に近づいてきている(『落語三百題 落語の戸籍調べ』下巻 武藤禎夫、1969年、116頁参照)。

民間説話としてポピュラーだった長名話だが、これが落語に取り入れられたのは上方の方が早かったらしい。宇井無愁氏の『落語の原話』(角川書店、1970年)によれば、現行の「寿限無」は西日本型に伝えられた「長名」の唱え方に近いことから、上方からの移植だと推測できるそうだ。曰く、「大坂にはこれとは別の唱え方があったが、大正中期に東京から逆輸入した「寿限無」に圧倒され消滅した。」

宇井氏のいう「大坂で消滅した長名の唱え方」こそ、陀羅尼品から名前をとった「長名話」であったと考えられる。三遊亭金馬(三代目)の『浮世断語』(有信堂、1959年)には、「大坂にもこの寿限無という咄はありますが、大坂は(八っつあんが御隠居に頼むのでなく)お寺の和尚さんにつけてもらうのです。『陀羅尼品』というお経のなかから撰ってつけるのです。(中略)大坂のは無理のない自然な仕込みですが、落げが悪い。この寿限無がいたずらで、井戸へ落ちて、かわり番こに「寿限無寿限無」と呼んで、終いに和尚がお経の文句みたいな節をつけて呼んで、「だだぶだぶだぶ」と死んでしまうのです。」とある。これだ!

桂米朝と長名話

現在もなお、この長名話の記憶を伝えている落語家がいる。上方落語中興の祖、桂米朝(3代目、1925-2015)その人である。師匠の『続・上方落語ノート』(青蛙房、1985年 岩波現代文庫、2020年)収録「長名について」より一文を引きたい。曰く、「東京の「寿限無」に対して、上方には「長名(ながな)」という古いネタがある。(中略)戦後、ともかくこれを覚えていた人は、桂南天、桂文吾の両師であった。」

『上方落語ノート』岩波現代文庫(全四集)

米朝師匠が南天・文吾両師から伝えられた「長名」では、「ソギヤネクシヤネ・バシヤバシヤシユダイマンダラー」という陀羅尼品のフレーズが、「しょきゃねぐしゃ、ねばしゃばしゃ、しゅうたい万太郎」と訛って最後は万太郎とどうやら名前らしくこじつけてある。米朝師匠はもとより、このネタを守ってきた南天・文吾両師も、長名が法華経の陀羅尼品に由来することまではすでに知らなかった。米朝師匠はこのエッセイを発表したのち、読者のひとりからこの文句が陀羅尼品に似ていることを指摘されたという*4。なにせ上方の「長名」には、名前の由来を説明するくだりが一切省かれていたそうだ。曰く、

「東京の「寿限無」との大きな違いは、東京の方は「五劫のすり切れ」にしろ「ポンポコナー」にしろ、いちいち有難そうな説明がなされる。こちらはその理屈がまるでないのである。ただ、長生きして長者になる有難い名前がある。少し長いが覚えられるかな……というようなことで親に教えるのである。
「はじめが〝あに〟じゃ」
「さよさよ、はじめが兄で、つぎができたら弟になる」
「そやないがな〝あに〟から始まる」
などという件りがあった。
こんな話はまず、再び陽の目を見ることはあるまい。」
(桂米朝「長名について」より)

桂米朝『続・上方落語ノート』(青蛙房、1985年)

ダラニの由縁と法華経『陀羅尼品』について

陀羅尼(ダラニ)とは仏教経典に取り込まれたインド古来の呪文である。バッシヤチャリヤ博士は「印度最古の梵語」だと感激したそうだが、実際はインドの経典語サンスクリットに俗語のフレーズや意味不明のオノマトペなどを盛り込んだ文字どおりの呪文(つまり寿限無)である。短いことで日本人に親しまれてもいる般若心経の締めくくりに出てくる「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」という文句を思い出していただければよい。お釈迦様の時代には、呪術的な迷信でしかないダラニ・真言マントラのたぐいは教団内で使用が禁止されていたが、病気直しなどの効用が認められていた手前、時代が下ると用途を限って許可されるようになった。それが大乗仏教の時代には教義の深遠さを演出する小道具として経典にも侵入し始め、密教が全盛期を迎えると経典全体が意味不明の呪文に覆い尽くされてしまうのである。

代表的な大乗仏教教典として知られ、日本でも熱狂的信者を輩出した法華経にも、わざわざ一章を割いてダラニで埋め尽くされた章がある。それがすなわち『陀羅尼品』。法華経の行者や修験者はこの陀羅尼品を読誦して加持祈祷を執り行い、民衆の前で験力を競った。筆者の身内が大病をした際にも、法華経信者である親類が、熱心に病気平癒の祈祷をしてくださったことがある。おそらくこの陀羅尼品も読誦されたのだろう。

長名話の盛衰に関する考察

しかし呪術的な力が備わっているとされるダラニを落語のネタにして、しかも「長生して長者になる」どころか井戸に落ちて死んでしまうというオチはちょっと「悪趣味」である。じっさいこのネタが高座でどの程度受けたかは分らないが、後味悪いネタにありがたいダラニを使うことへの禁忌意識から、長名の由来を説明しない暗黙の了解が出来、次第に由来そのものが分からなくなってしまったのではないか。

そして長名話が上方から東京に移植された際に、陀羅尼品という特定の経典に依拠した「長名」がすたれた代わりに、「寿限無寿限無……」響きの滑稽さを楽しむ長名が創作された*5。陀羅尼品の長名をつけたのは町の坊さんだったが、「寿限無」の名付け親は長屋の御隠居。前者のバックボーンは京都町衆が親しんだ法華仏教であり、後者のそれは江戸町人に実践道徳を説くパッチワーク的「石門心学」であったろう。ひとつの「長名」から、そんな庶民教養の変遷までも想像できるところが面白い。とまれ上方へと逆輸入された「寿限無」によって、バッシヤチャリヤ博士を泣かせた「長名話」も風前の灯火だ。嗚呼。

スペシャル・デレゲート野口復堂

明治時代に上方で演じられた「長名話」のネタは、仏教が日本人の教養に深く浸透していた時代の最後の名残であった。その名残が、明治二十一年にあってインド随一のサンスクリット学者を涙させ、マドラスのインド人たちに感銘を与えたのである。「仏教国日本」あるいは古きよきインド文化を継承する日本という甘ったるい幻想の一端は、このとき復堂先生の口上によって形成されたのかもしれぬ。それにしても、日印友好の記念として、いま一度「長名話」を演じてくれる噺家さんが出てこないかしら。

木戸銭四銭の「長名話」で大いに株を上げた復堂先生、少々舌が滑りすぎている感もあるが、マドラスでは一事が万事この調子で、インド人の間に極東の独立国日本への好奇心を駆り立てつつ、大いに歓待されたようだ。明治二十一年十二月二十八日、復堂の送別会の席で撮られた神智学協会大会の集合写真(口絵ⅱ)には、羽織袴を着込んだ復堂が、会長のオルコットと並んで写真の中央に堂々と収まっている。まさに彼は極東からの「スペシアル・デレゲート」と呼ぶにふさわしかった。しかし野口復堂の武勇談は、「長名話」だけでは終わらなかった。

神智学協会大会の集合写真に写った野口複堂(青丸内)。向かって右隣はオルコット大佐

註釈

*1 『明治期京都の講談 ──京都日出新聞に見る──』菊池真一(甲南女子大学研究紀要創立三十周年記念 1995.3.10)今回、長名話の背景につきまして、菊池先生より詳細な御教示をいただいた。

*2 桂米朝『三集・上方落語ノート』青蛙房、1991年の写真ページに掲載。また渡辺均『落語の研究』駸々堂・大阪、1943年に掲載の関西各派寄席芸人人名簿(大正十年十一月調べ)に吉本派の落語家の部にも「梅香」の名が見える。

*3 梵語学者バッシヤチャリヤの履歴については、神戸学院大学赤井敏夫教授のご教示による。

復堂は帰国後に幾度となくインドで長名話を披露した時のことを語ってきた。彼はインドから帰国して約一年後の明治二十三(1890)年四月、平井金三のオリエンタル・ホールが発行した雑誌『活論』第一号に「印度紀行逸事」という短い記事を寄稿している。「四十年前の印度旅行」とほぼ同じ経緯の話が綴られているが、そのなかで復堂曰く、梵博士婆沙遅耶利耶(バシヤチヤリヤ)は「余ノ話ヲ聞キ拍手妙ト云ヒ話中梵語ノ部發音ニ誤謬少シトセスト雖モ余ヲシテ充分ニ其意ヲ解セシムルニ足ル之レ正シク佛経典ナリト是ニ於テ雄婆両氏ハ私ニ日本佛教ノ盛ナル巷路ノ痴談ニモ佛語ヲ聞クヲ得ルニ至ルトテ非常ニ感嘆セラレタリ余其後雄氏ノ案内ニテ親ヲ交ヘシ人々ハ其幾人ナルヲ知ラサリシカ坐興奇話交換ノ時ニ至テハ何レモ余ノ長名話ヲ所望スラレシニハ程々當惑ヲ極メタリ」とのこと。

*4 『四集・上方落語ノート』(青蛙房、1998年 岩波現代文庫、2020年)収録の「「長名」の原典」にその経緯が載っている。

*5 「寿限無」は浄土系大乗経典『無量寿経』が典拠だとの指摘もある。


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