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35 血の轍 シンハラ仏教ナショナリズムの誕生|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇


シンハラ仏教ナショナリズムの誕生

アナガーリカ・ダルマパーラは仏教復興運動をアジア近代化の精神的指針として提示した。また、彼のミッションはアジアから西欧にまたがる国際的な広がりを持ち、多くの白人インテリ層を新たに仏教に帰依させた。

しかし仏教を掲げたアジア主義者、あるいはコスモポリタンという献辞は、ダルマパーラの多様な顔の一面しか言い当てていない。彼はスリランカ内外において、のちの民族紛争の火種となる排他的な民族主義的思潮、「シンハラ仏教ナショナリズム」の最初にして最大のイデオローグとしても言及されている。

若いダルマパーラが旗振りを務めた仏教復興運動は、スリランカの多数民族にして仏教徒でもあるシンハラ人のナショナル・アイデンティティ確立を目指し、徐々に政治色を強めていった。ランカーの獅子によるアジテーションは、能天気なコスモポリタリズムを前提としたオルコット大佐の仏教復興運動との摩擦を招いたばかりでなく、タミル人をはじめとするランカー島内の他の少数民族に対するシンハラ人の排外主義を激化させる結果となった。

スリランカの研究者J・B・ディサナヤカの論文に寄り添う形で、ダルマパーラがシンハラ仏教ナショナリズム成立に果たした役割を顕彰もとい検証してみよう。

三世紀に及ぶポルトガルとオランダによる支配につづいてイギリスが一世紀にわたり支配したために、十九世紀の終わりまでには、シンハラ人仏教徒は、自分たちの運命を決定し民族独立に導く指導者を欠いていると感じるようになっていた。ダルマパーラが若いころに民族主義運動に関わって埋め始めたのが、まさにこの歴史的空白だったのである。民族的指導者としてのダルマパーラの役割は二つあった。ひとつには、シンハラ人仏教徒に確固たるアイデンティティをもたせること、そしてそのアイデンティティに誇りをもたせることだった。前者を達成するために、セイロン島にいる他のすべての民族(エスニック)、言語、宗教共同体と明らかに異なる主要な要素をシンハラ人仏教徒に意識させようとした。また後者のためにダルマパーラはこれらの相違を称賛し、ときには誇張していった。

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ディサナヤカによれば、ダルマパーラが取ったシンハラ・アイデンティティ戦略のなかで最も重要なキーワードとして用いられたのは、シンハラ人と「アーリア人種」との結びつきであった。

「アーリア人種」の痕跡を求めて

アーリア人種とはいかなるものか。十九世紀から二十世紀半ばにかけて猛威を振るった選民思想、その頂点にヒトラーの第三帝国を冠する「アーリアン学説」の根幹をなす人種概念である。これをひと言で要約すれば、「歴史上の偉大な進歩は、常に、白人であるアーリアン人種によって成し遂げられてきた」という学説だ。

アーリアン学説は、一八世紀末、言語の類似性から出発し、一九世紀後半、イギリスのインド植民地支配体制確立後、学説としての体系化が進行し、二〇世紀に入り、西欧の帝国主義支配が世界に拡大してゆくのに即応して、人種論としての色彩をますます深め、アーリアンの原住地も西北ヨーロッパ、イギリス、ドイツなどとの結びつきを合理化する地点に設定され、次第に西北方へ伸びてゆくこととなった。
一八五九年から六一年にかけて、マックス・ミューラーはロンドンの王立協会で講義をし、従来、「インド・ヨーロッパ」、「インド・ゲルマン」といっていた言い方を、「アーリア」と言い換えるべきだと説いた。なぜならば、インドに侵入したサンスクリットを話す人々は、自らをアーリアと呼んでいたからだ、と説いた。(中略)トーマス・ヤングは、この共通な祖語をもつ言語群(サンスクリット語とギリシャ語、ラテン語、ペルシア語、ゲルマン語など:筆者補)の人々をインド・ヨーロッパ語族と名付けたが、その限りでは、言語の類似性の問題であり、人種や血の問題ではなかった。ところが、マックス・ミューラーになって、インド・ヨーロッパをアーリアと言い換えるべきだと言い出し、いささか様相が違って来、人種論に転化してしまった。
リグ・ヴェーダを研究し、そこに「アーリア」というひびきのよい呼称で呼ばれている集団があり、その集団が、原住民を征服して、古代インド文化を創造した、と解釈したマックス・ミューラーは、その「アーリア」こそヨーロッパ人、ペルシア人、インド人の共通した祖先である、と主張した。晩年、彼は自説の誤りを認め、(中略)言語の類似性を基礎とする言語学上の概念であるインド・ヨーロッパ語族を、人種的ひびきをもたせた「アーリアン」に言い換えたことは、言語と人種を混同することになることに、彼自身も気がついたらしい。しかし、そのときには、彼自身がアーリアン学説を説き出してから、既に三〇年近い月日が流れていた。そればかりか、アーリアン学説は何よりも、一九世紀後半の世界制覇に向かうヨーロッパの時代的風潮に強く訴えるものがあり、既に、強固な学説として定着し、ひとり歩きし出してしまっていた。

『アーリアンとは何か その虚構と真実』津田元一郎、人文書院、一九九〇年、三十五〜三十六頁

長い引用になってしまったが、「アーリアン学説」を応用すれば次のような言説が出来上がる。

かつてインドは古代においてすぐれた「アーリア人種」によって支配された。アーリア人種による輝かしい古代文明を築いたインドは、いまなぜ停滞しているのか? それは、劣等人種との混血を繰り返したためである。より「純血」に近い西欧のアーリア人が、インドを支配するのは「科学的」に正しい!

このような「アーリアン学説」は、当然ながらアジア諸国の「劣等民族」には絶えがたい屈辱を与え、さまざまな形の反発を巻き起こした。後述するダルマパーラのように、「セム族の劣った宗教(キリスト教)を奉じるヨーロッパ人よりも、我らアジアの仏教徒こそが真のアーリアの伝統を継ぐものである」という主張もなされたし、「日本語のほうが、現代西欧諸語よりサンスクリット語に近い」という言語学的な反駁もあった。平井金三はそのような説を称えていたようだ(平井とともに日印協会設立に携わり、同じく日本語=アーリア語族説を唱えていた田口卯吉の所論が、橋川文三『黄禍物語』岩波現代文庫、二〇〇〇年に詳しく紹介されているので参照されたし)。

なんといっても相手は「近代科学」の錦の御旗を持っていたし、「アーリア人=白人」という人種的特徴を持ち出されるとグゥの音も出なかった。当時は本当に、世界は「白色人種」によって支配されていたからだ。アジアの知識人もまた、「人種主義」という舞台の上で醜悪な舞を踊ることを余儀なくされた。

どうしても、言語は血脈の表象でなければならず、人種には優劣が存在せねばならなかった。そして「劣った血」の持ち主は「高貴な血」に奉仕することによってのみ存在を許され、究極にはガス室へと送られねばならなかった。生き残りの切符を手に入れるため、人々は「アーリア人種」の痕跡を求めて奔走した。かように時代の風潮を支配した「科学的」人種主義。その呪いの言葉の勢力下で、ダルマパーラは二十世紀に入るとシンハラ・ナショナリズム運動の中心人物として、故国スリランカやインドにおいて活発な運動を始めるのである。

文明と血脈

ダルマパーラはシンハラ人のルーツを太古の選民(と空想された)「アーリア人種」に求めたうえで、インドのエートス、つまり偉大なアーリア人の文明の最高に昇華された形態を「仏教」に与えた。

ディサナヤカ曰く、「アーリア人が「高貴」な人種で純血だということは、ダルマパーラがシンハラ人に植えつけようとしたシンハラ人意識の中心をなす考え方となった」のである。スリランカの民衆を目の前にして、ダルマパーラはしばしば扇動的な言葉を叫んだ。

「ライオンの力を備えた人々の子孫が、現在のシンハラ人である。その子孫は決して征服されなかったし、野蛮な血は一切混ざっていない。」

仏教を奉じるアーリア人、汚れた血の混じっていないシンハラ民族こそが、真のアーリア人と呼ぶにふさわしい……。「人種の純血性」という呪いが、南アジアの小島でも繰り返し増幅されていった。

このようにエスニシティーを定め、シンハラ人は一方で「ドラヴィダ」人に分類されるタミール人や「アラブ」に分類されるイスラム教徒と区別され、もう一方でダルマパーラが「野蛮」と分類したヨーロッパ人からも区別された。(中略)ダルマパーラが「ダンマ・ディーパ」すなわちブッダの教えの島という概念を利用してシンハラ人の心に刻みつけたのが、シンハラというエスニック・グループと仏教の間にある分かち難いつながりである。「シンハラ人でなければ仏教徒でない」というスローガンがシンハラ人の民族的(エスニック)宗教感情を高めた。

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彼はつねづね、仏教をその精華とする「アーリア文明」を称賛していた。その場合、対立概念として彼が持ち出したのは「セム族の文明(The semitic civilization)」に属する「破壊的」なイスラム教やキリスト教だった。岡倉天心らの大アジア主義とも響き合うこの文明論的視座は、外国人を聴衆とした場合には(人種を超えた普遍文明である)「汎アーリア主義」のニュアンスで語られた。それがシンハラ人聴衆を相手にしたときには、しばしばアーリア「人種」という血の論理へと変換されたのである。

本来「アーリア文明」の担い手であるべきインドは、イスラム教徒の侵略による仏教の破壊とヒンドゥー教の迷信によって疲弊し、堕落の極に達してしまった。我々が偉大なるブッダの教えを実践している間、森の中を駆けまわり獣を追っていたような野蛮人たち(ヨーロッパ人)が、いまインドを我がもの顔で蹂躙している。仏教の再興によって偉大なるインドを取り戻すことは、純血を守った「アーリア人の末裔」であるシンハラ民族に課せられた使命であった。少なくとも、彼は、そう考えていた。一九〇八年、ダルマパーラはインド自治権運動に言及して次のように喝破している。

シャンカラチャリヤによって説かれたヴェーダーンタ教は、再生族(バラモンおよびクシャトリヤ階級 訳注)のためだけの宗教でした。何百万もの溢れんばかりのシュードラ階級は、宗教のかやの外に置かれ、彼らは宗教的真理の深層を飲み込むことを許されなかったのです。その結果バラモンは排他的で独善的になり、非バラモン階級は迷信の泥沼にのたうつ羽目となりました。
……今日、それと同じ独善的な主張がイギリス議会で、国務大臣によりインドに向け宣言されたのです。モーリー氏によれば『インドの民衆には自治政府は相応しくない。そして百年以上、彼らはそのままの状態であろう。』というのです。
しかし仏教の本質的な教義は、(我々に)独立のための自治政府をと求めています。『自分自身を明かりとせよ。自己を汝の頼りとせよ。誰をも汝の頼りとするな、自己は自己の主人である、その他の誰が主人でありえようか?』そのような民主的な仏陀の教えが、インド民衆の人生に影響を与えていた間、インドは征服されることはなかった。しかし排他的なバラモンたちが権力を握ったとき、カースト制は維持され、そしてインドは衰退したのです。

*47

ダルマパーラの思想的文脈において、インドにおける仏教復興とシンハラ=アーリア民族意識の鼓舞とはパラレルに結びつけられていた。対機説法と呼ぶにはあまりにも際どい矛盾をはらみながら、ダルマパーラは時代の激流のただなかを、前へ前へと「仏陀を背負って」進み続けた。

たとい「思想的に」どんな問題があったにせよ、セイロン全島を行脚して繰り広げられた彼のアジテーションは、英国の植民地支配によって劣等感と無力感に打ちひしがれていた民衆に、人間らしい自尊心への目覚めを促した。まだ七歳の頃に、ダルマパーラの説法バーナを目撃したダーナパーラは、その熱狂を次のように回想している。

ある朝、太鼓のビートに乗って今晩ゴール市場広場でアナガーリカ・ダルマパーラの説法会が開かれることが告げられた。この時の販売主任(訳者註:ダーナパーラの勤めるカレースパイス店の上司で、ダルマパーラがシンハラ語新聞に寄せた記事の熱心な読者であった)の興奮ぶりを想像して欲しい。われわれは皆その「バーナ」を聞いて熱にうなされたようになり、敬虔な思いで胸が熱くなった。(中略)
それは今まで聞いたこともない、否これからも二度と聴くことがないような摩訶不思議な「バーナ」だった。
彼は僧侶のような袈裟は身につけなかった。僧侶のように結跏趺坐をして座らなかった。僧侶のように経典の引用をすることもなかった。
彼は彼自身が発明した奇妙な服を身にまとい、何もやましいところのない人間が見せるような毅然とした態度で真っ直ぐ背筋を伸ばして立っていた。帝国主義と白人の責任を徹底的に非難するダルマパーラの声の響きには、聞いているうちにほとんど耳鳴りがしてくるほどだった。(中略)
当時のセイロンでは多くの人がへつらい、ぺこぺこし、こそこそしているなかで、アナガーリカ・ダルマパーラはしっかり胸を張って歩いていた。彼はただ一人の貴族だった。彼はシンハラ人に自尊心を植えつけ、胸を張って歩くことを教えたのだ。

*48

四たび「日出づる国」へ

故国スリランカにおけるシンハラ・ナショナリズム勃興のただなかにあって、ダルマパーラの眼差しは依然として強く日本国に向けられていた。「『宗教復興』は民衆が政治的、経済的な従属を当然のこととして許容した精神状態でいる限りは全く不可能であることを痛切に感じていた」*49ダルマパーラは、他のアジア諸国と日本とを対照させ、「国家が政治的に他国に従属しているとき、弱者はその特性を無くしてしまう。日本を除いたアジアは道徳、産業、政治や経済の状況が堕落してしまっているのだ。」*50と分析していた。

民族の自立のためには、シンハラ人への技術教育が必要なことを力説していた彼は一九〇六年、具体的行動として父ムダリヤルを説得して織物学校を設立した。同じくシンハラ人青年を技術研修生として日本に送り、織物その他の技術を学ばせる目的で六万ルピーの財団を設立した*51。彼は一九〇八年の論説のなかで次のような言葉も残している。

仏教と千年の時を共にしたことで、日本は最強の世界大国の一つになりました。千年の時を(仏教なしに)ブラーフマニズムと共にしたことで、インドは堕落の最悪の状況にあります。……千年の時が満ち、仏陀の警告の声が再びインドに届きました。古代の信仰の教えは今、サンディやアジャンタやエロールの洞窟からでも、ナーランダやブッダガヤやベナレスの僧院からでも、ヒマラヤのアシュラムからでもなく、日出づる国から広まるのです。

*52

この論説から五年後、ランカーの獅子は四たび「日出づる国」へ上陸を果たす。


註釈

*45 『アナガリカ・ダルマパーラとシンハラ仏教ナショナリズム』J・B・ディサナヤカ著 中山敬訳(『思想』一九九三年一月号「特集 ナショナリズム」に掲載)。 J.B.Dissanayakaは一九三九年生まれ。セイロン大学ペラデニア校博士課程修了。コロンボ大学教授(当時)。言語学、シンハラ文化史。著書に『シンハラ文化史』(シンハラ語)。

*46 ディサナヤカ 同 一方、コロンボ大学教授(シンハラ文学)のKusuma E. kurunaratne氏は「ダルマパーラは伝統文化のリバイバル運動を始めた。20世紀初頭のスリランカは植民地支配下の文化抑圧の状況にあった。彼はスリランカの全てのグループは独立をかち取るため、自己の伝統文化を取り戻すために立ち上がったのだ。私は、当時の民族文化リバイバリズムと現在の非常に狭いナショナリズムとは違うものだと考えている。」と述べている(一九九八年三月九日 東洋大学に於けるインタビュー)。

*47 Anagarika Dharmapala〝India and Japan〟MJB Vol.16, No.4,1908(〝Return to Righteousness〟

A Collection of Speeches,Essays,and Letters of the Anagarika Dharmapala.Edited by Ananda Guruge, 1965)

*48 D.B.Dhanapala〝Anagarika Dharmapala's work in

Ceylon(Sri Lanka)〟Maha Bodhi Society -Diamond Jubilee Souvenir(The Maha Bodhi 1891-1991 Centenary Volume, The Maha Bodhi Society of India, p101-102)

*49 Kumari Jayawardena〝Anagarika Dharmapala's Impact on Ceylon Politics was Decisive and Far Reaching〟MBJ Vol.73,No.3&4,1965

*50 Kumari、同前。そりゃいまの日本を見れば一目瞭然ですがな。

*51 〝Flame in Darkness〟p95 一九〇六年には、最初の織物学校がスリランカに設立され、まもなく大きな教育機関となった。なお、ダルマパーラが一九〇四年に設立した留学財団から日本に留学した技術留学生については、山田英世『セイロン〈こめとほとけとナショナリズム〉』桜楓社、一九七四年に簡単な後日談が載っている。

*52 Anagarika Dharmapala、同上。

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