自己紹介①

本名でもよかった。いっそ名前なんてなくてもよかった。名無しでいい。語る言葉やこれまでの行動、これからの選択で私というものは形作られる。だから、私に名前はない。私は、わたしだ。

わたしはとある町に在る自然農をしながら自給自足の生活を営む農場の家で産まれた。長男、長女、次男、三男そして次女のわたし。5人兄弟の末っ子としてこの世に誕生した。

自宅出産というのは現代では相当珍しいだろう。母は自然なお産を望んでいた。農家の長男だった父と出会って結婚をし、化学肥料も農薬も使う農業から有機農業に変え、自然農の道にたどり着いた。安全な食べ物を得るのに自給自足の生活が一番だった。百姓と名乗れることが母の誇りだったかもしれない。

保育園や幼稚園には通わず、畑で作業する母や父の背中にくっついて回ったり、猫や毛虫と遊んだり、山を駆け巡った幼少期。

小学校はわたしの学年は男子が9人女子が1人の計10人だった。

小学2年の頃から男子に距離を置かれ始めたのは仕方ないとする。しかし、小学3年生の時、今まで弁当だったのが給食に変わったことにより、女子1人というマイノリティから、1人だけ弁当というマイノリティも追加されて、避けられない孤立と仲良くしていた小学校時代の記憶。

おかげさまでわたしは、自分の中に世界が在る目立たぬ少女を6年間やり遂げた。その性格は今もつきまとってる。

中学に上がり、クラスに半数女子がいる環境になっても、馴染めないのがわたしだった。最初の友達がなんとかできた。

その友達をはじめとし、部活を通して小学生の時より何十倍もまともな学校生活を送っていた。1人だけ弁当というの相変わらず。それでも付き合ってくれる友達がいてくれた。有難い。

中学1年の終わり、学校は卒業式だったために午前終わりだった。午後は友達の家で遊んでいた。

この日がこの町で暮らす最後の日になった。

2011.3.11東日本大地震。

地震が地面を大きく揺らし、津波が町を飲み込んだ。そして人々の悲しみと苦しみを残していった。

私の町は海から遠かった。それに地盤も強い地域だったこともあって崩壊した家などもなかった。

しかし原子力発電所が爆発して大量の放射能が漏れた。その放射能は広い範囲に降り注いだ。幸いにも?隣の村まで避難区域となり、わたしの町から避難した人は少なかったと思う。むしろ隣村の中学生が一緒に授業を受けていたようだ。

わたしの母は放射能に対して強い危機感があったため、13日に兄2人と山形県の知人宅に避難した。

自己紹介②に続く



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