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【読書コラム】自殺のための他殺という究極のナルシシズムに社会はどう向き合うべきか - 『「死刑になりたくて、他人を殺しました」 無差別殺傷犯の論理』インベカヲリ★(著)

 定期的にニュースで耳にする言葉。

「大量殺人で死刑になろう」

 理解はできるけれど、共感のできない論理にいつも気持ちの悪さを覚えてきた。

 これに対して、死にたいなら一人で死ねと激しく非難する人もいる。なるほど、死刑になることの目的が死ぬことであるなら、それも一理あるのかもしれない。ただ、きっと、そうではないからわざわざ他人を殺すのだろう。

 恐らく、どんなに詳しく説明されても、

「そういうことなら、他人を殺すしかないね」

 と、納得できはしないけれど、似たような事件が繰り返し起こってほしくはないから、犯人たちの理屈は把握しておきたい。そう思っていたら、 Amazonで『「死刑になりたくて、他人を殺しました」 無差別殺傷犯の論理』という興味深い本を見つけた。

 無差別殺傷犯を巡り、立場の異なる十人のインタビューを収録している本書。加害者家族を救うNPO法人の理事長だったり、秋葉原無差別殺傷事件の犯人・加藤智大の友人だったり、精神科医だったり、死刑執行に携わった元刑務官だったり、いろいろな人たちの見解が載っていた。

 あくまで、各位の意見であるから、それが正しいとか、正しくないとか、評価できるものではないけれど、読んでいて腑に落ちるものがいくつもあった。

 例えば、無差別殺傷の目的は「間接的な親殺し」なのではないかという見解は興味深かった。

 警視庁のデータによると、平成二十九年の時点で、殺人事件の約半数は親族間で行われていたという。このようなケースの場合、その被害者に直接的な恨みがあると考えていいだろう。そうであれば、殺意が直接恨みを持つ相手に向かうのと、無関係な他者に向かうのとでは、どのような違いがあるのだろうか。
「私はそれ、結構同じような気がしているんです。結局、無差別殺傷のほうが家族への殺傷力は強いですよね。無差別で被害者を多く出したほうが、家族は生きていけなくなるから」

インベカヲリ★『「死刑になりたくて、他人を殺しました」 無差別殺傷犯の論理』14頁

 恨んでいる家族を殺すよりも、加害者家族にすることで、社会的に生きていけなくする方が復讐の重みがあるという発想は歪んでいるが、実際、効果があるらしく、無差別殺傷犯の母親はよく、

「私を殺してほしかった」

 と、口にするそうだ。

 本当にそうだとしたら、いろいろ考えさせられる。なぜなら、これは社会からのバッシングが多い故に成り立つ論理。メディアの加害者家族批判が新たな無差別殺傷犯を生んでる可能性もあるからだ。わたしたちオーディエンスの意識も無関係ではいられない。

 また、自殺のために他殺をするなんて、ナルシシズムが歪んでいるにもほどがあるという指摘も興味深かった。

「自殺のための他殺というのは、病的に肥大した自己愛ですよ。自己愛そのものが悪いわけではないが、人殺しで有名になろうなんて幼稚な自己愛ですよ。それと、それにそそのかかされた嫉妬というものがある。でもこれが特別な一人の話ではなくて、層としてまん延しているのが現代だと思います。マグマみたいに、ちょっとした亀裂を見つけるとポッと火を噴く」

インベカヲリ★『「死刑になりたくて、他人を殺しました」 無差別殺傷犯の論理』190-191頁

 たしかに、注目を集めるためというか、限界を迎えたストレスを発散するためというか、自分の中で妄想をこねくり回して、無関係な他人の命を奪うなんて、あまりにも身勝手過ぎる。それがメディアの影響によるものだとしても。

 それでも、そのことを責めても意味がない。だって、すでに被害者の方は亡くなっている。仮に犯人が過ちを認めたとして、覆水盆に返らず。犯人がどんなに反省したとしても、失われた命が返ってくるわけではない。なのに、我々は犯人を責めずにはいられないからとことん辛い。

 わたしはこれまで運よく誰かを殺したいと思ったことはない。だから、死刑が犯罪抑止につながっているのか、実感としてはよくわからない。ただ、理屈として、殺したいほど憎い相手がいるけれど、こいつを殺したら俺も死ななきゃいけないのなら、ここは我慢しておこうかな、と殺人を躊躇する心境は想像できる。可視化されないけれど、実際、そうやって思いとどまった人がたくさんいるのかもしれない。

 しかし、この想定は犯人が我々と同じ論理で物事を思考する前提に立っている。どんな論理か。要するに自分の命は大切という論理である。

 そんなの当たり前じゃないかって思うだろう。わたしだって、そう思う。

 でも、問題はそうじゃない人たちがこの世には存在し、無差別に人を殺して、どこまで本気かはわからないけれど、動機を聞かれた際、

「死刑になりたくて、他人を殺しました」

 と、答えしまうことである。

 おそらく、その数はそんなに多くない。死刑があることによって推定される抑止効果と比較すれば、きっと、微々たるものに過ぎない。

 だが、その微々たるものたちは無差別に人を殺す。恨みもなければ、会ったこともない人たちに街中で襲いかかる。自分の命が大切なわたしたちにとって、「そういう人もいるよね」と受け入れるには、あまりに大き過ぎる少数だ。

 これが人を殺さず、単に喚き散らしているだけならば、あいつらはおかしいから放っておこうで済ませていいのかもしれない。ただ、いまや、そんなやり方で済ませられる段階は越えてしまった。

 じゃあ、どうすればいいのか。素直に導き出せる答えは加害者予備軍を支援することなのだろう。

 もちろん、そこには気になる点がいくつもある。なにをもって加害者予備軍と判定するのか。逮捕された犯人たちの情報から共通項を探すことはできるかもしれないが、それを理由に、まだ罪を犯していない人を犯人扱いすることは倫理的な懸念がある。また、まずは被害者の支援を優先すべきという声はあがって然るべきだし、「そもそも加害者に寄り添うなんてけしからん!」と不満が噴出するかもしれない。

 ただ、なにもしないで放っておいたら、第二、第三の無差別殺人が起こってしまうかもしれず、いまや社会は場当たり的でもなにかしらを試みる必要があるから我々は苦しんでいる。

 そういう観点から、本書の中で紹介されていた支援にグッとくるものがあったので、なにかしらのヒントになることを期待して共有したい。

 秋葉原無差別殺傷事件の犯人・加藤智大の友人である大友秀逸さんが個人的に、「人を殺したい」「事件を起こそうと思っています」というメールを送ってきた人の話を聞いているそうだ。

 大友氏は彼らに対して、特別に呼びかけているわけではない。だが、メールがくればやりとりし、ときには電話で話し、相手が望めば直接会って話を聞く。<中略>彼らの口からは「死にたい」「殺したい」などの言葉が頻繁に発せられる。内容のほとんどは「止めてほしい」ではなく「話を聞いてほしい」なのだという。

インベカヲリ★『「死刑になりたくて、他人を殺しました」 無差別殺傷犯の論理』37頁

 この活動に効果があるかを測定することはできないけれど、認知の歪みから自殺や殺人に至る人がいるとするなら、会話を通して、その修正が図れた場合、結果的に思い止まる可能性は十分に考えられる。

 してみれば、有名人の自殺報道の際、不安や悩みの主な相談窓口が紹介させるけれど、殺人事件などを報じるときにも同様の案内をつけることは有効なのかもしれない。

(なお、相談員の負担が増えたり、相談だけで解決しないこともあるなど、これまた簡単な話ではないらしい。メディアにしても伝える情報が増えることは多くの支障があるだろう。だから、あくまで、ひとつのアイディアとして)

 いずれにせよ、まず、我々にできる最初の一歩は、理解し難い自殺のための他殺というナルシシズムについて、理解できないなりに考えてみることなのだと思う。そして、その歪みが生じる原因は社会の側にないか、真摯に受け止めることが必要だ。





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