見出し画像

【映画感想文】広末涼子の再婚報道で思い出したガスライティング - 『ガス燈』監督:ソロルド・ディキンソン

 年明け、すぐに、広末涼子が鳥羽シェフと再婚予定とのスクープが流れていた。

 いろいろ大変なことになっていたけれど、どれだけバッシングされても、なお、自分の意志を貫けるなんて素直にカッコいいと思った。たぶん、わたしはこの人生で、そういう恋愛をできないだろうし、別にしたくもないのだけれど、ほんのちょっと羨ましいと感じずにはいられなかった。

 去年、不倫スキャンダルが出たときはビックリした。鳥羽シェフのYouTubeをけっこう見ていたのだ。レシピはもちろん、料理の基本的なテクニックを丁寧に紹介してくれていたので、かなり勉強になった。

 例えば、鍋でお米を炊くときの水分量の目安だったり、フライドポテトをサクッホクッに揚げるコツだったり、アサリの火入れを判断する方法だったり、これまでなんとなくでやってきた作業に理論的な支柱を与えてくれた。

 クラシルの公式動画をきっかけに鳥羽シェフ個人のチャンネルを登録し、更新されるたび追いかけていた。その中には息子さんと一緒に料理する動画もあった。フリートークでご家族の話もしていた。まさか、そんな人が不倫するとは思わなかった。しかも、その相手はあの広末涼子。

 案の定、ネットもテレビも雑誌も、このことばかりになってしまった。加えて、キャンドル・ジュンも特殊な形式の記者会見をするなど、次から次へと新しい話題が投入された。

 で、当時、ある言葉に注目が集まった。ガスライティング。心理的なDVのひとつで、加害者が被害者に「お前はおかしい」「お前はバカだ」「お前には常識がない」など、故意にその価値観を否定し続けることで、自信を喪失させ、自分に服従するよう追い込む行為を指すらしい。

 夫婦や親子、恋人、友人関係など、あらゆる場面で生じ得るのだが、夫が妻をコントロールしようとするケースが多いらしく、キャンドル・ジュンが広末涼子について、精神状態が不安定であるとマスコミに発表した際、これはガスライティングなのではないかと批判する声が上がった。

東京大学大学院准教授の斎藤幸平氏は「『ガスライティング』という言葉があって、相手に散々嫌がらせをしたり嘘をつき続けることで正常な判断をできなくしてしまい、相手を服従させる心理的虐待があるんですよ。日本で言ったらモラハラです。そういう人は物理的な暴力を振るっているわけでもないけれども、女性側は常に緊張感を持って苦しんでいるけれども逃げられないし、自分がむしろ悪いと責め続けている方もいる」と分析。世界中で問題になっている「ガスライティング」は、2015年にイギリスでは犯罪化されているという斎藤氏は「日本でも議論するべき」課題であることを強調した。

広末不倫騒動に対する杉村太蔵の提言に共感の声

 なにが問題なのか、だいたいわかった。そして、そういうことってあるよなぁと理解もできた。

 高齢男性が家族に対して、高圧的な言動をするところを何度か見たことがある。どういう目的なんだろうと不思議だったが、相手を支配するための戦略なのだとすれば、納得がいった。同時に、シンプルに最低じゃないといまさら軽蔑の念も湧いてくきた。

 しかし、それをガスライティングと呼ぶのはなぜなんだろう。根本的なところが気になって、でも、調べるほどのモチベーションも湧かず、ぼんやり、ずっと放置してきた。

 もし、広末涼子の再婚報道がなければ思い出すことはなかっただろう。そういう意味ではこれもなにかの縁。せっかくだし、今回こそ、謎を解こうと心を決めた。

 ネットで検索したところ、語源はイングリッド・バーグマン主演の映画『ガス燈』らしいとわかった。1944年公開の作品らしく、無論、わたしは見たことなければ、その存在すら知らなかった。

 とりあえず、Amazonプライムに入っていたので試聴してみた。すると、これが想像以上にガスライティングだった。

 身寄りのない金持ち娘を騙し、その家に眠るお宝を盗むため、男はイングリッド・バーグマンに接触。甘い言葉で魅了して、見事、結婚にこぎつけるや否や、夫は妻を社会的に孤立させる。その上で「お前は無自覚に泥棒をしているし、記憶喪失でまわりに迷惑をかけているんだぞ」と叱り続ける。結果、妻は頭がおかしくなってしまう。

 ガス燈は妻が自分の正常さを認識するためのギミックで、このあたりの伏線と回収はあまりに鮮やか。いかにも名作然としたクオリティの高さだった。

 映画では加害者である夫に悪意があったので、解決のしようがあった。でも、これが普通の夫婦関係だったら、終わるきっかけが見つけられないはず。だとしたら、これはなかなかに地獄だなぁと恐ろしくなった。

 むかし、わたしは撮影を頼まれて、あるおじいさんのお宅を訪問していた。同い年の奥様がいて、子どもなしで五十年近く連れ去ってきたと言っていた。さぞ仲睦まじいのだろうと勝手に考えていたところ、おじいさんは奥様に対し、

「お客さんに来ているのにお茶を出さないなんてあり得ないだろう!」

 とか、

「話しているところに顔を出すんじゃない」

 とか、

「お前みたいなバカが会話に混ざろうとするな。邪魔なんだよ」

 とか、躊躇なく暴言を吐く場面を目撃。わたしは腰を抜かしてしまった。

 そこに合理性は一ミリもなかった。脈略も落ち度も失敗もなかった。精神的なハラスメントであるのは明らかだった。よく奥様はこれに耐えているなぁと心配になった。

 実際、それから数年が経ち、奥様は体調を崩し、施設に入ったのだけれど、おじいさんとの面会を未だに拒否している。なにがなんでも絶対に会いたくないそうだ。

 自業自得とは言え、おじいさんはしょげ返り、なお一層老けこんでしまった。聞けば、家事や買い物、銀行、役所の手続きなど、すべて奥様任せだったらしい。要するに、おじいさんは自分一人じゃ生きていけないと認識していたからこそ、奥様が離れていかないように、奴隷の如き扱いで縛り付けていただけだった。

 いまでは共働きは普通のことだけど、ひとむかし前は専業主婦も多かった。

 うちの母親もそうで、あるとき、飲食店を経営しているママ友に誘われて、ランチだけでも働きに出たい。と父親に言ったところ、

「お前は仕事なんてしたことないのに大丈夫なのか? そんな遊びみたいな感覚でやったら大変なことになるぞ。家のことはちゃんとできるよか? 子育てが疎かになったらどう責任を取るんだ?」

 と、わあわあ詰められて可哀想だった。結局、母親はそんなこと関係ないと仕事を始めた。以来、父親は母親に理不尽な要求をしなくなった。

 たぶん、あれも父親は生活費を自分が稼いでいるという状況を作り、家族を支配下に置くことで捨てられないための保険をかけていたのだろう。

 果たして、縛られているのはどちらなのか?

 人間関係にはガスライティングをはじめ、弱さから無意識にとってしまう心理的コントロールはたくさんあり、正論だけではどうにもならない事態が無限に存在し得る。

 つい、我々はよその家庭について、客観的にあれこれ思ってしまうけれど、たぶん、主観的にはにっちもさっちもいかなくなったから、離婚したり、再婚したり、面会拒否をしたり、ドラマティックな展開に至っているのだろう。

 そりゃ、道徳的に生きられたら素敵かもしれない。ただ、ヘルマン・ヘッセが言ったように人生は「馬で行くことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない」ものなのだ。

 みんな、惨めになる覚悟を待てれば楽になるはず。まあ、それが難しいから、わたしたちは悩み続けているし、どうでもいいと言いつつ、広末涼子のその後が気になってしまうんだけどね。




マシュマロやっています。
メッセージを大募集!

質問、感想、お悩み、
最近あった幸せなこと、
社会に対する憤り、エトセトラ。

ぜひぜひ気楽にお寄せください!!

この記事が参加している募集

これからの家族のかたち

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?