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【映画感想文】どう老いるか それが問題だ - 『瞳をとじて』監督:ビクトル・エリセ

 名作『ミツバチのささやき』で知られるビクトル・エリセ、31年ぶりの新作がついに日本でも公開された。しかも、その内容が主演俳優の失踪をきっかけに、何十年も映画を撮っていなかった監督の物語というから、虚実入り混じったテイストに期待値は高まりまくっていた。

 実際に見てみると、単刀直入なテーマに恐れ入った。それは「どう老いるか それが問題だ」という一言に尽きる。

 生きるとは常に老いることであり、若い頃は不公平に思えるビジュアルのよしあしだったり、運動神経の差だったり、感性の豊かさだったりが一律に衰えることを通して、最終的にはなにもできない高齢者へと収束していく。むかしはどんな会社で偉い立場にあったとか、立派な大学を卒業したとか、そういうことも老いた身体の前ではなんの意味もなさない。

 一見するとそれは絶望で、今後の人生において最も若い現在という瞬間が相対的に輝いて感じられるほど。

 むかし、アダルトビデオの有名な監督と食事をしたことがある。なんでも、アダルトビデオに出演する女性たちはそれぞれ語り得ない絶望を抱えているんだとか。幼少期の虐待、理不尽な性加害、どう生きるべきかの指針を失うに足るつらい経験を重ねた挙句、紆余曲折あってカメラの前に立っている。

「だから、俺はな、そいつが最も美しい瞬間を映像に残してやりたいんだよ。永遠なものにしてやりたいんだよ」

 当時、そんな風にうっとり語る彼の言葉は綺麗事のように思えた。と言うのも、アダルトビデオに出演した女性たちの自殺率の高さを知っていたから。出演強要が社会問題になっていると知っていたから。

 ただ、いまとなっては、彼の言葉にも一抹の真実が含まれていたと強く感じる。

 なぜなら、老いることに抵抗する唯一の方法は映像に残すことであり、実際にわたしたちは古い映画を見ることを通して、若かりし頃の俳優たちと日々出会い続けている。

 ビクトル・エリセは『瞳をとじて』で、そんな映画が持っている根源的な魅力を真正面から描き切った。いわば、メディア=媒体として、映画は時空を超えることができるという素朴な感慨を。

 映画の中で映画を見るという入れ子構造を『瞳をとじて』は採用していた。

 まず、1947年に撮影された『トリスト=ル=ロワ(悲しみの王)』という作品の冒頭が流れる。これはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『死とコンパス』という小説の以下の記述がベースになっているのだろう。

レンロットの恐るべき明敏な頭脳を実地に試すことになった多くの問題の中で、ユーカリの絶えることのない香りにつつまれなトリスト=ル=ロワの別荘でクライマックスに達した、周期的かつ連続的な血なまぐさい事件ほど奇妙なもの ー 奇妙きてれつ、といってもよいもの ー はない。エリック・レンロットが最後の犯罪を食い止められなかったのは事実だが、それを予見していたことも明白である。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『死とコンパス』鼓直訳

 ところが、この映画は最後まで完成しない。主演役者フリオが失踪したせいで、撮影続行は不可能となり、企画ごと頓挫してしまうのだ。

 それから二十年以上のときが経ち、『トリスト=ル=ロワ』の監督ミゲルはテレビ局に呼び出される。未解決事件の特集でフリオについて取り上げたいというのだ。お金だったり、上映されなかった映画が放送される機会だったり、あるいはフリオとの再会を求めていたり、様々な動機に後押しされて、ミゲルは番組に協力することを決める。

 そして、撮られなかった映画によって生まれた物語が映画となって、劇場に座るわたしたちの前で静かに上映される。ボルヘスじゃないけれど、結末はあまりに明白だ。どう考えても、『トリスト=ル=ロワ』のラストシーンが流れる以外にあり得ない。

 失踪し、死んだかもしれない俳優フリオは『トリスト=ル=ロワ(悲しみの王)』のフィルムの中で永遠に美しさを保ち続けている。もちろん、それは探偵役を演じているフリオであり、フリオそのものではないけれど、なによりもフリオという人間を物語っている。

 もしかしたら、フリオという名前なんて、どうでもよいのかもしれない。これはフリオに限った話ではない。わたしたちは誰かを認識するとき、あるいはなにかを認識するとき、名前に頼り過ぎている。

 そのため、誰かの話をしようとしたとき、

「えーと、名前はなんだっけ……」

 と、言葉に詰まったら最後、話したかったことも話せなくなってしまう。

 でも、本当は話せることがあるはずなのだ。名前に詰まる直前まで、なにかしら話そうとしていた事実はあるわけで、その情報量に比べれば名前なんて小さなものである。

 そもそも、わたしたちはどうして、こんなにも言葉を信じているのだろう。

 NHKのEテレ『びじゅチューン!』という番組で、アートをモチーフにした歌とアニメを発表し続けている井上涼さんの『ぜんぶぜんぶマシになーあれ』という作品に、こんな歌詞がある。

あいうえおの組み合わせに
泣いたり笑ったり

井上涼『ぜんぶマシになーあれ』

 所詮、どんな言葉もあいうえおの組み合わせに過ぎない。その限られた可能性の中で、人間という無限の可能性を表現し尽くすことなんて、どだい、できやしないのだ。

 それに対して、映画はなんて雄弁か。

 映画を見ている限り、そこに映ったものは永遠に存在し続ける。そういう意味で、死は瞳をとじることでしか訪れない。実際、映画における死の表現として、亡くなった人のまぶたを下ろしてあげるという動作は定番となっている。現実でそんなことをするのか知らないけれど。

 原題"Cerrar los ojos"はスペイン語の命令形であり、これの忠実な訳である『瞳をとじて』、ビクトル・エリセがこの言葉をタイトルに選んだことはあまりにも意味深い。




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