夢の涯てまでも

夢が現実を圧倒してしまって動けなくなる、ということが、よくある。

今朝もそうだ。陽気な夢ならば力も沸くが、陰気な夢だともう駄目だ。悲しみや打ちひしがれた感情が目を覚ましてもありありと身体に残っているので、しばらくは動けない。酷いときには午前中いっぱい使い物にならない。

「夢なんだからさっさと切り上げて生活をおくるべきだ」と理性が励ます。実際、「夢で傷ついたので今日は会社休みます」なんて通用する筈がない。しかしこれほどリアリティを持って迫ってくると、頭では判っていても身体が追いつけない。起き上がることができない。

特集上映「ヴィム・ヴェンダース レトロスペクティブ ROAD MOVIES/夢の涯てまでも」にて、およそ5時間の映画『夢の涯てまでも』(1991年、独、米、日本、仏、豪合作)を観た。示唆に富んだ作品だった。『キッズ・リターン』(1996年、日本)で久石譲がサンプリングしたあの「声」は、これだったのか!と奮えた。

物語の終盤、主人公一行が、カメラを使って「夢を映像として再生する」実験に取り組むようになる。次第に自身らの夢にのめり込むようになり、精神的破綻を来しはじめる。そんな「夢の映像中毒」から立ち直るきっかけになったのは、彼らを見守りながら書かれた一篇の小説だった。

「書く」という行為が、現実世界に打ち込む楔(くさび)となる。自らを刻印することで、または自らが刻印されることで、この世界から剥離していかない。

日常との均衡を保つために、夢と現実の調和を図るために、「書く」という行為は、僕のような人間にとっては必要な行為なのかもしれない。


<了>



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