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希死念慮の源②

私は母が22歳の時に生まれ、1歳下に妹がいます。
母は大阪の生まれで、学力は高かったらしいのですが大学には行かず、高卒で入った会社で夫となる私の父と出会い、結婚して東京・横浜に来ました。父はもともと東京の人で、父の実家は裕福でしたが父の父親にあたる人は父が物心つく前に病で亡くなったため、一人っ子です。

母は気分の上げ下げが激しい人でした。若い母親で、文化の全く違う大阪から東京(吉祥寺)に来て、今のようにSNSどころかインターネットも使えず、孤独やプレッシャーもあったのかもしれません。
いつからかは覚えていませんが、小学校に入る前から既に私は母から殴られたり大声で怒鳴られたりは当たり前でした。
私の古い記憶で一番鮮明なのは、小学校にあがる前のものです。何歳かは正確には覚えていませんが、補助輪無しの自転車に乗れるようになる前だったので、4歳とかそのあたりだと思います。
子供用の教育の絵本に、母に殴られた私の鼻血がべったり付いているのです。アナログ時計の読み方を教える内容のものなのですが、1時間=60分、つまり長針が例えば8を指したら40分だとか、夜の7時35分と言われたら長針と短針はそれぞれどこにあるのか?だとか、その場合短針は7ぴったりではなく7と8の間にあるだとか、3時15分の30分前は何時何分だとか、とにかくアナログ時計と時間の読み方を考えさせるクイズがたくさんある、蛙がキャラクターの絵本でした。

この長針の読み方やフルが60分という感覚が当時の私はなかなか覚えられず、母は激高して私の顔や頭を何度も殴り、鼻血と涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃで、目は余計に見えず、鼻が詰まるため耳が一層聞こえにくく、母が何を言っているのかよく聞こえなくなり、聞き返すとまた殴られ、そのうち鼻血が顔や白いセーターにも付着して固まって汚しました。

母は外面は良く、父の前では私を罵倒はしても殴らなかった(父が別室にいるときは殴ったり料理を投げつけてきたりしました)ので、それらを目撃したことのあるのは妹だけでした。私は顔が祖母(母からすると姑)によく似ていて、妹は母方にそっくりなので、それもおもしろくなかったのかもしれません。
幼いころから何かあると殴ったり大声で何時間も怒鳴られたりしていたので、私は幼稚園児の時にはいっぱしに嘘をつくようになっていました。自分の本音を話したことなどありません。
何かの時に、幼稚園の先生が、なぜそんな嘘をついたのと私に、園庭の端の地面に私と並んで座りながら聞いていましたが、怒られたくないからと言えば「怒るのはあんたが●●したせいでしょ!」と激高する母に殴られてきた私はそれに答えず、じっと園庭の砂を眺めていたのを覚えています。

小学校では成績は学年でもトップに次ぐ成績でした。中学受験のために小学4年生から通った日能研でも常に上のクラスで、名前や点数ももちろん上位に貼りだされていました。選抜クラスにももちろん入っていました。ピアノもコンクールに出るほど頑張っていましたし、英会話のスクールも行っており、そのどれもでまあまあの成績でしたが、楽しいというよりも母に怒られないようにと常に気を張っていて(もちろん毎日殴られて罵倒されていました)、夜は12時までに寝たことがなく、母が抜き打ちで様子を見に来るため、家にいて楽しい時間が一度もありませんでした。

成績は優秀でしたが、母は一度も私を褒めてくれませんでした。日能研では毎週試験があり、それが終わるとその日能研のある駅の公衆電話から家に電話をかけさせられ、試験の出来を母に報告させられていました…まだ点数は出ていないというのに。
日能研のある駅は、私の家から地下鉄で2つ先の駅にありました。今はホームドアが整備されていますが、私はいつもその電車に飛び込んでしまいたかったです。電車に飛び込みたいけれど痛いだろうな、でも飛び込みたい、でも飛び込むの怖いな、、、あぁ2本見送ってしまった、こんなに時間が経ったら家に帰るのが遅れてまた母に怒られる、、、家に帰りたくないけれど帰らないと母が…せめて駅の階段から転げ落ちたい、でもそれじゃ死ねないよね…そんなことばかりを考えていました。
包丁を自分の腹にあてたことも何度もありますが、怖くて突き刺せませんでした。
洗剤を飲んでみようとしましたが、原液では怖かったので、水で薄めて少量を飲んでみました。何の意味もありませんでした。

自殺の方法として刃物で手首を切るという概念を覚えたのがいつかは分かりません。テレビを見ることが私は禁止されていたのですが、当時同居していた祖母と大祖母が昼間のサスペンスドラマが好きだったので、ちらっと見たシーンで刃物で手首を切る場面があったのかもしれません。
ちなみにどれくらいテレビを見ていなかったかというと、当時kinki kidsが流行っていたのですが、私は彼らを新聞のテレビ欄でしか知らず、「光一と剛どっちが好き?」と同級生に聞かれて読み仮名がわからず「た・・・たけしかな?」と必死に答えざるを得ないほど、テレビを知りませんでした。

とにかく、包丁でお腹を切らずとも、手首を切るという方法があることを知った私。目の前の筆立てにははさみとカッター。ただ、手首はやはり怖かったので、腕の外側をカッターで切ってみました。その時の爽快感たるや。たぶん痛かったのだろうと思うのですが、痛みなんて全く覚えていません。その時の旨の悲しみやもやもやが晴れていくような気がして、あぁこのカッターがあれば私生きていけると思ったのです。
それからは、母に殴られている間や大声で罵倒されている間はとにかく、「この後でカッターで腕を切ってやる、そしたら楽になる、辛い分だけたくさん腕を切ることをご褒美にしよう」と考えていました。最初はうっすら切りつける程度だったのですが、次第にどんどん深くなっていき、切るきれいな肌が無くなってきたら既に切った痕をなぞるように刻んでいました。

ちなみに、私は今38歳なのですが、30年近くたった今もその痕はくっきりと残っています。

一部です
なんか肌の毛穴が目立ってごめんなさいw

手首を切らなかった理由は、怖いという理由の他にもう一つあります。当時私はピアノをものすごく一生懸命やっていて、ピアノをやっている間は母の罵声を聞かずに済むので楽しかったのです。そのピアノを、もし左手の手首の神経を傷つけてできなくなったら、もう本当に心が死んでしまうとおもって、手首を切ることができませんでした。ちなみに、ピアノの教室の送迎は母が車でしてくれていましたが、その行きや帰りも母の攻撃が常に私に向けられていて、本当につらかったです。

長くなったので、一度区切りますね。
この自傷は、中学校二年生に上がる前の冬にストップするのですが、次の記事ではそのことを書きます。
長くなってごめんなさい。でも、遺書がわりのつもりで書いているので、自己満足ですが許してください。そして、読んでくださってありがとう。

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