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あの街で暮らしたということ。-3年後に振り返る協力隊の日々-

協力隊生活の2年を過ごした街(任地)に、3年ぶりに戻った時に感じたことを、書き留めておきました。
当時はその生活がすべてなので見えなかったことも、再訪してみると少し外側から見ることができたのだと思います。

以下、2022年末に、任地再訪直後に書いたありのままの文章。

活動という点以上に、この国で、この町で暮らしたことに、どういう意味があったのか。

改めて訪問してなんだか腑に落ちた気がするので、書き記しておきたいと思う。


それは、なぜ自分はラオス人じゃないのか?ということ。

この街はラオス人の社会が凝縮されている。

ここで生まれ育った人、結婚や進学、就職で来ている人。


その中に外国人ボランティアという立ち位置で居た自分。


明らかに異質な存在なのだけど、配属先があるおかげもあり、「産業商業局の日本人ボランティア」という肩書きでこの街にいることができた。


この人とこの人は親戚で…

この人とこの人は高校が一緒で…

この家族とこの家族はそんなに仲が良くなくて…

とか、色々な人間関係が複雑に絡み合う。


その中で基本的には傍観者として、たまにその中に入った気持ちで2年間過ごしていた。


当たり前にそんな生活を送っていると、私はラオス人として生まれていたら、どんな人生になっていたんだろう?と思った。


パクサン(任地の名前)で育って、パクサン高校に行って、きっとラオス国立大に行って、どこかの政府機関に就職したのかなぁ。

それとも自営業したりしたのかなぁとか。


ラオス人としているならばここは心地良すぎて、そんな人生もありだったのではないかとよく思った。


でもそう思えば思うほど、日本人としての自分が現れてくる。

日本で育ったから得た価値観もたくさんあるから、そうじゃない自分はもはや想像できない。


今回はラオス人の家に泊めてもらって水浴びをしたのだけれど、なぜラオス人は寒いと言いながらこの季節に冷たい水で水浴びできるんだろう?

ホットシャワーを久しぶりに使える環境になったらほっとしてしまった。

そんな習慣からも、ラオス人との違いを感じる。

人間関係、距離感。
当時は時に過干渉に感じることもあったけど、でも一人で出来ないことばかりだったので助けてもらっていて、それはよく考えると踏み込んできすぎないほどよい距離感のような気もして。


生まれた国によって確実に影響を受ける習慣、考え方も多い。


だからこそ、その中で分かり合える部分があるととてもうれしい。

世界にはさまざまな文化があるが、それぞれの文化に価値の優劣高低ははく、差異だけがあるという考え方である。

『文化人類学を生きる』(結城史隆, 2021)

協力隊のコミュニティ開発職種の技術顧問、結城先生から教わった、文化相対主義の考え方が必要だと実感もした。

それぞれの違いこそが美しい。

私たち自身も自分の文化に捉われており、他にも多様な認識や区分があることに気づかなくなっている。

『文化人類学を生きる』(結城史隆, 2021)

そうまさに、先ほどの水浴び&ホットシャワーのような単純な出来事からも、自分の文化に捉われていることを実感するのである。
身体に自文化が染みついているということを。
その状態で「異文化」に長期間暮らすということは、自文化と異文化のパラレルワールドで生きているような感覚だった。

ラオスの文化がその時の「当たり前」になってくるから、「なぜ自分はラオス人じゃないのか」という感覚にすらなってきたのだ。

それだけラオスという国の、パクサンという街のローカルコミュニティの中で2年間をどっぷりと過ごしたことは、自分の中に深く、深くラオス文化が介入してくる経験だったのだ。

そしてもうひとつ、感覚的には、この街にいるとラオスが途上国と呼ばれるのが不思議だなと感じていた。

ラオスのすべてが当たり前な感覚になるので、例えばモノの選択肢が少ないことや、交通機関が日本のようには張り巡らされていないこと、そんなこともすべて不便には感じなかった。
何より、言い方が悪いけれど、任地の人たちの知能が低いとか、そんなことは全くない。同じように人生を生き、学び、働き、様々な感情が湧く人間なのである。協力隊として赴任する前は心のどこかで、協力隊が派遣されるような国の人びとに対して見下すような気持ちがあったのかもしれない。(支援される対象、というイメージだったのかな。)

だから、ラオスと日本の2つの文化が、自分の中で同じ高さに並んで橋が架かったこと。
その2つの橋を、自分は常に行き来しているような感覚になった。

これが実感としての文化相対主義なのである。


協力隊期間が終わった直後は上手くこの経験を咀嚼できていなかったのかもしれないけど、今改めて分かったような気がした。

協力隊経験は、自分の中にもうひとつの文化という橋を、自文化と同じ高さで架けてくれることだったのだ。

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