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軽やかに、カラフルに:箱森裕美句集『鳥と刺繍』

雷鳥や刺繍の花のその軽さ

句集タイトルのイメージにもっとも近い作品を挙げるとすれば、上記だろうか。
雷鳥のまるまるとした愛嬌ある姿。
季節ごとに羽の色が違うという雷鳥の特性に「刺繍」という措辞が重なる。
花の刺繍は実際の植物ではない。だからこそその「軽さ」に作者が感じたであろう表現としてのリアリティと発見を読者は我が物として共有できるのだろう。

あるいはこんな刺繍の句もある。

ジャンパーに花の刺繍の向かひ合ふ

掲句はフツウに作れば
 ジャンパー「の」花の刺繍の向かひ合ふ
だ。でも、この句は「ジャンパー「に」」とその後の言葉を容易に展開させないために、わざと屈折させたかたちで助詞を使っている。
そのことが通常より言葉に圧を掛けた状態での省略効果を呼んで、現実以上にイキイキとした「花」が言葉の世界の中に咲き始める。
向かい合って、高らかにその出現を宣言するかのように。

全五章から感銘句を一章ごとに二句ずつ。
(以前、本noteの別稿で鑑賞した句はなるべく外した形で選びました)

さびしさのふと青梅に塩まぶす
真鰯は光の束や切り開く

落葉満つ縦笛の子の双眸に
待春や体育館で見る映画

リモコンに密の四角や台風来
冬薔薇ドールハウスの天から手

百物語友達に淡き熱
藤眩し等しく老ゆる友とゐて

白鳥の空背負ひたる震へかな
あぢさゐの輪郭保ちつつほろぶ

軽やかに、カラフルに。
どの句の中でもひらりひらりと言葉と季語が互いに触れ合って、新鮮な光を17音全体から放っている。

言葉と季語の負荷がさらに良い感じで掛かると、下記のようなエッジが利いた魅力的な句になる。

踊り子の臼歯の見えて芽吹きけり
「臼歯の見えて」の健康的な描写による肉感が清々しい下五に展開する(「けり」の切れ字での収め方が秀逸)。韻文のエナジーの輝かしさがそのまま踊り子の輝きになる。

寒夕焼人体模型無毛なる
冬の厳しい夕焼の赤さと人体模型の取り合わせ。
これだけでも面白いが、下五「無毛なる」を加えた点が本句をオリジナリティの高い作品としたと思う。一見、ダメ押し的な下五の形容が無味乾燥な模型にエロスを与え、そこに鮮烈な冬の赤い空が覆いかぶさる。
虚無感の漂う美しさ。韻文でしか表現しえない映像だろう。

かぼちや抱くこれはわたくしのいもうと
そこはかとないおかしみと悲しみがある作品。
ただ単に南瓜を抱いているだけの映像なのだが、作者はそれを「これは自分の妹だ」と誰ともなくに宣言しているかのようだ、まるで小さい子どもが駄々をこねているかのように。
「わたくし」というもって回った言い方をすることで句のリズムが終盤にかけて少し鷹揚になり、それが作品の魅力をさらに増している。

引導をわたす四葩のあはみどり
所属する俳句結社「炎環」誌での発表作品。
その月の感銘句として頂いた俳句だが、今回の句集の中で再会してあらためて不思議な魅力と説得力のある作品と思った。
個人的には「引導をわたす/四葩のあはみどり」とスラッシュの部分で切れている二物衝撃の句またがりの俳句と捉えている。
何に対して作者は引導をわたしたのか。
強い言葉と決意の背景に四葩(よひら:紫陽花のこと)の薄緑の細かい花が寄り添うかのように開いている。
震えているかのような花びらは、思いがけない自分の気持ちと言葉の苛烈さに驚き震えを感じている作者のようでもある。
花の薄緑の色も一時のもので、しばらくしたら異なる色を紫陽花は見せるのだろう。その時に作者の気持ちの在り様はどう変わるのだろうか。さまざまに想像のふくらむ作品である。

本句集、いわゆる句集にある序文やあとがきはない。
そのことから「掲載している俳句(作品や表現)だけで勝負したい」という作者の心意気を感じた。
ただ個人的には、簡単でよいから自己紹介的な「俳句歴」はあってもよかったかもと思う。
(そのことで読者の作品に対する想像や興味がさらに増えることもあるので)

言葉を紡ぐスタイルは人それぞれで、俳句と定める人もいれば、散文というかたちを選択する人もいる。
そして、選んだスタイルの中で如何に自分の言葉を自分の表現として構築していくか。
箱森裕美にとっては、その構築方法は「鳥」と「刺繍」に象徴されるものなのだろう。
滑らかに空を飛び自由である鳥。
あるいはひと針ごとに糸と色を重ねて、世界を現出させる刺繍。
しなやかに鮮やかに自分だけの言葉と季語を求めて、これからも旺盛な創作活動を続けられることを祈りたい。

(大変遅くなりましたが)第一句集のご上梓、おめでとうございます。
ご恵贈、ありがとうございました。

※本句集は一般流通書籍ではありません。下記サイトに入手先が掲載されています(価格1,000円)。ご興味のある方はぜひ😊




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