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ふたつの地政学—大陸系と英米系―

古典地政学の歴史についてざっくり解説する記事です。理論そのものの解説はあちこちでされているので、学史的な位置づけをメインに書いています。

この記事は、「「GHQに禁止された」と言う前に読んでほしい地政学史入門」という記事の一部を分割したものです。あまりに長くなったため、欧米編と日本編で別の記事にしました。一部日本編と内容が重複しますがご了承ください。

1. 地政学の3つの流れ

まず初めに説明すべきなのは、「地政学」と呼ばれるものなかには、成立経緯も内容もまったく異なる複数の「地政学」が混在しているということです。

一つは20世紀初頭に成立し、ドイツで広まった①大陸系地政学。もう一つは、イギリス・アメリカを中心とする②英米系地政学です。この二者は、古典地政学(あるいは伝統地政学)と呼ばれます。現在、「地政学」と称する書籍の多くで紹介されているのは、英米系地政学の理論です。今回はこの2つを中心に説明していきます。

もう一つは古典地政学とは正反対のスタンスで、古典地政学の理論や各国の軍事戦略を批判的にとらえる③批判地政学と呼ばれる流れです。ベトナム戦争に対する反対運動などに起源を持ち、1990年代に研究潮流として確立された分野です。現在アカデミックな研究として行われている「地政学」は、批判地政学的なスタンスを取るものが多数派となっています。余力がなかったため、この記事では批判地政学は扱いません。

なお、古典地政学の歴史については、すでにweb上にもさまざまな解説があります。例えば、Wikipediaの「地政学」の項目は詳しく書かれており、参考になります(2023年6月20日時点)。正直なところ大筋はほとんど同じなのですが、この記事では大陸系地政学と英米系地政学の違いに力点を置いて記述しています。

2. 大陸系地政学

まずは、ドイツを中心とした大陸系地政学から説明していきます。戦後、地政学が「タブー視」されるようになった理由の多くは、大陸系地政学が依拠するイデオロギーと、その社会的影響にあります。

2-1. 社会進化論・国家有機体説・環境決定論

ラッツェル
(public domain / wikimedia commonsより)

ドイツの地理学者にフリードリヒ・ラッツェル(1844-1904)という人物がいます。彼自身は「地政学」という言葉は使っていませんが、地政学史を語る上では重要な人物ですので、大陸系地政学に含めて説明します。

ラッツェルは膨大な史料から、世界の諸民族の盛衰にいかなる法則性があるかを明らかにしようとしました。それを踏まえて彼が提唱したのが「国家の空間的成長に関する七つの法則」です。

国家は人口の増加とともに成長し、どこかでぶつかり合う。より強い国家がより弱い国家を飲み込み、大きくなってゆく。これがラッツェルの考えです。世界史の歴史地図帳をイメージしてもらうと分かりやすいかもしれません。

こうした見方は、当時支持を広げていた進化論の影響を受けています。ラッツェルはもともと生物学を専攻しており、1870年ごろまではかなり強くダーウィンを支持していたようです。のちには批判するようにもなりますが、生物学者のモリッツ・ヴァーグナーとの個人的な親交もあって進化論の影響を強く受けていました。

ラッツェルの「七つの法則」は、ヴァーグナーの生物種分布に関する理論を民族分布に応用したものと言えます。『民族地理学』冒頭の献辞も「ミュンヘン民族博物館長モリッツ・ヴァーグナー教授に捧ぐ」となっています。19世紀の末はスペンサーに代表される社会進化論が影響力を持ち始めていた時代であり、ラッツェルの理論もその派生と見なすことができます。

生物学のアナロジーを用いたラッツェルの研究成果は、『人類地理学』という著作にまとめられています。続く『政治地理学』では、『人類地理学』で示した民族の盛衰を、国家有機体説と組み合わせた議論を展開しました。

国家有機体説とは、国家を生物のような一つのまとまりとして捉える見方です。これはフランス革命への反動としてドイツを中心に発達してきた思想で、社会契約説のように社会を個人の集合とする思想とは対照的な立場にあります。

19世紀のドイツでは、国家のあり方を論じる国家学が興隆しており、ヘーゲルやブルンチュリといった思想家によって国家有機体説が論じられてきました。彼らは法哲学の観点から国家を論じており、「家族と市民社会の弁証法としての国家」といった抽象的な議論を展開しています。これを歴史的な実証と組み合わせた点が、ラッツェルの後世への影響の一因と言われます(篠田 2023: 28)。

また、しばしばラッツェルは環境決定論の代表者として語られます。自然環境が人間の生活や国家の盛衰を決定する、という考えです。例えば、彼の主著である『人類地理学』にはこんな一節があります。

北方から実に頻繁に征服者や国家建設者が来て南方人を屈服させたのは、偶然なのか否かという問題が当然生じる。(中略)そして涼しい気候からの到来者には鍛錬の利点があるだけではなく、この気候の民族はより暖かい気候よりも大きな長所を持っている。それは、彼らに固有の肉体的な力と精神の鍛練とエネルギーに加えて、さらに住民の優れた文化を習得することが可能であるのに、他方の民族では別の交換をするのは可能ではなく、あるいはその気がないということである。ゆえに極地側に存在する地帯は、接触の差異に常に優位に立っている。(中略)強い民族が弱い民族に圧力を及ぼさないままで両者が長く隣接して居住することは不可能である。温帯や寒帯の厳しい気候の中で強化された民族によって、敵側への圧力が目に立つほどに行われることを我々は予期してよいだろう。

ラッツェル(2006: 363)

ラッツェルは世界各地の民族の歴史を調べ、北方の民族が南方の民族を支配する例が多いことを指摘しました。そしてそれは、寒い気候が精神を鍛えるからだとするのです(他にもいろいろと理由が挙げられています)。世界史上にはローマ帝国やオスマン帝国のように南から北への侵攻もありますが、ラッツェルは特にそこには触れていません。

こうした記述からラッツェルは環境決定論者と呼ばれ、とりわけ高緯度に位置する西洋の国々が熱帯の地域を支配することを正当化してきたとされます。ただし、気候と民族性を結びつける考えは、古くはアリストテレスの著作にも見られ、ヘルダーやモンテスキューも風土と精神性の関係について論じています。必ずしも、ラッツェル独自のものではありません。また、センプルやハンティントンなど、ラッツェルに影響を受けたアメリカの地理学者のほうがより環境決定論的な議論を展開していたことにも留意が必要です。

日本におけるラッツェル=環境決定論者=悪という図式は、フランス地理学の立場からラッツェルを紹介した飯塚浩二によるところが大きく、著書を丁寧に読むとラッツェルは環境要因以外も重視しているという指摘もあります(山口 2007; 2008)。少なくとも、ラッツェルは「環境決定論」という理論を積極的に提示したわけではありません。

社会進化論・国家有機体説・環境決定論などの考え方は、いずれもラッツェル以前から西洋の思想に登場していました。にもかかわらず地政学史においてラッツェルがたびたび引き合いに出されるのは、こうした自然科学の論を人間社会に適用するような思想を組み合わせて、生存圏(Lebensraum)という考えを生んだ点にあります。

ラッツェルは、生き物が「なわばり」を持つように、国家にも生存のための領域が必要と考えました。これが生存圏です。ラッツェルは、生存圏という用語を「人口を支えるために必要な農地」といった程度の意味で用いていました。しかし、この考えがのちのち、あたかも自然界の法則=そうなって当然のもの、と解釈され、軍事拡張を肯定する論理となっていきます。

2-2. 国家学の一部門として誕生した「地政学」

チェレーン
(public domain / wikimedia commonsより)

地政学(geopolitik)」という用語を最初に用いたのは、スウェーデン出身の学者、ルドルフ・チェレーン(1864-1922)です。チェレーンははじめ国法学(国家を法学的に論じる分野)の研究を行っていましたが、ラッツェルの著作を読んだことをきっかけに、自らの理論体系に地理学を取り入れるようになりました。このあたり、生物学から関心がスタートしたラッツェルとは対照的です。

ラッツェルは「人類史の法則を知りたい」という基礎学問的な関心で研究していたように見えるのですが、チェレーンの場合は、現実の政治への適用を強く意識していました。彼は、スウェーデンの国会議員としても活動しています。

チェレーンは国家学を、①人種政治学、②地政治学、③統治政治学、④経済政治学、⑤社会政治学という5つの部門に分けました。この時点では、地政治学=地政学は国家学の体系の一つに過ぎませんでした。しかし、チェレーン以降は地政学にばかり注目があつまり、チェレーンの「国家学」全体が地政学と見なされることもあったようです。

チェレーンは「領土はその政治的自決の為めの一前提たる経済的独立性の為めに、人間の如く或る程度まで自足し得なければならない」(チェレーン 1936)と主張しました。この自給経済のことをアウタルキーと呼びます。これは、ラッツェルの「生存圏」を政治的な自立と結びつけた考えと言えます。

初期のチェレーンの政治思想は、ヘーゲルトライチュケといった思想家の影響を受けたものでした(ホルダー2000: 125)。トライチュケは「戦争なしには、国家は存続しえない。すべての国家は、戦争にその起源を有する」という言葉を残しています。これは地政学の性悪説的な傾向の一つの起源になっているような気がします(憶測です)。

2-3. 過度に協調されてきたナチスとハウスホーファーの関係

ハウスホーファー
(public domain / wikimedia commonsより)

チェレーンの考えを発展させ、地政学を確立させたのが、カール・ハウスホーファー(1869-1946)です。彼の父、マックス・ハウスホーファーはミュンヘン工科大学の教授であり、ラッツェルの同僚でした。カール・ハウスホーファーも、何度かラッツェルと会ったことがあるようです(シュパング 2020: 97)。

パン・リージョン
(カール・ハウスホーファー - マケドニア科学技術アカデミー / CC BY-SA 4.0 / wikimedia commonsより)

彼は、ドイツ、アメリカ、ソ連、日本という4つの大国を中心とした4つの汎地域で世界を分割する「パン・リージョン」という理論の提唱者として知られます(※当初は3つ,ソ連は後から追加)。大国がそれぞれ自給経済圏を持てば、互いに衝突することはない、という考えです。

ハウスホーファーは、「悪の論理」としての地政学イメージの中心にいます。その最大の理由は、ナチス・ドイツとの結びつきです。ナチ党の副総統であるルドルフ・ヘスは、ミュンヘン大学時代にハウスホーファーの薫陶を受けました。そのつながりから、ハウスホーファーはヒトラーとも一時期親交を深めました。

ナチス=ハウスホーファー=地政学」というイメージは、今でも強く残っています。しかし、この図式は戦中に対立していた英米において一種のプロパガンダとして過剰に強調されてきた側面があります。「千人ものナチ科学者」を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるといったデマや、それを元にしたプロパガンダ映画によって、ハウスホーファー=ヒトラーというイメージが英米で定着しました(シュパング 2019)。

ハウスホーファーが初期のヒトラーに影響を与えたことは確かですが、彼はナチ党員にはならず、また妻がユダヤ系ということもあり、徐々にナチスとは距離を置くようになっています。ハウスホーファーの息子アルブレヒトに至っては、ヒトラー暗殺計画に関わったとして、ナチスによって殺害されています。

また、パン・リージョン理論で示されるいくつかの汎地域も、ハウスホーファー独自のものというよりは、それまで提唱されてきた地域概念を引き継いだものという指摘がされています(シュパング 2019)。パン・リージョンに先立つ汎地域概念の例としては、「EUの父」として知られるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーによるパン・ヨーロッパ主義が挙げられます。彼は世界を5つの地域に分け、それぞれの地域ごとに地域連合を組織化すべきという考えを持っていました。彼が描いた地図(こちらの論文の123頁に掲載)は、たしかにパン・リージョンと共通する点がいくつか見られます(もちろん異なる点もあります)。

2-4. クリスタラーとナチスの国土計画

当人が「地政学」を名乗ったわけではありませんが、ナチス・ドイツと関係を強めた地理学者として、ヴァルター・クリスタラーが挙げられます。中心地理論の提唱者として著名な人物ですが、彼はナチ党員として戦時期ドイツの国土計画に携わっていました。

中心地点の諸体系
(クリスタラー(1969: 395-394)/ NDLデジタルコレクションより)

特に彼が関わったのは、ポーランドを中心とした東方占領地の計画です。中心地理論は集落立地の法則性を数理的に明らかにする理論ですが、これが占領地に応用され、「合理的」な集落配置の検討が行われました(杉浦 2015)。最終的にはクリスタラーの案は採用されなかったようですが、中心地理論はたしかに国土計画に影響を与えていました。

しかし、ナチスへの協力の代償として、戦後は研究者としての職を得ることはできず、在野での研究を余儀なくされました。中心地理論は現在でも地理学の古典理論として教科書によく登場しますが、クリスタラーの評価はドイツよりもむしろ戦後のアメリカにおいてなされました。

一般的にクリスタラーは「地政学者」と呼ばれることはありませんが、その考え方には大陸系地政学と共通する部分があります。中心地理論は、一つの都市とそれを支える後背地をセットで考え、その編成を論じた理論です。都市‐後背地の関係は、国家‐生存圏の関係とよく似ています。世界をいくつかのブロックに分け、その中心となる国を設定するというパン・リージョンの考え方は、国内をいくつかのブロックに分けるという国土計画のロジックと共通しています。

3. 英米系地政学

次に、現代の地政学本においてよく参照される英米系地政学について説明します。

3-1. 実戦経験に基づかず提唱されたシーパワー論

マハン
(public domain / wikimedia commonsより)

英米系地政学における最初の登場人物は、米国海軍軍人であったマハンです。マハンは長らく海軍学校で教鞭を取っていましたが、実務経験は一度しかない、いわゆる「アームチェア・ストラテジスト」でした(石津 2020b: 120)。

マハンはなんといっても「シーパワー」の提唱者として知られます。彼は大英帝国の繁栄を念頭におき、海上交通路を制する制海権の重要性を説きました。海上輸送は陸路と比べて圧倒的に輸送力が高く、そのルートを確保するためのシーパワーが通商保護、ひいては国家の覇権につながると論じました。

マハンは主著である『海上権力史論』において、ナポレオン戦争においてトラファルガー海戦がイギリスの勝利を決定的にしたことなどを引き合いに出し、アメリカはフランスよりもむしろイギリスを見習って海洋国家を目指すべきと主張しました。マハンの理論は、当時衰退のきざしが見えていたイギリスにとっても耳あたりのよいものとして好意的に受け止められました。

3-2. マッキンダーは「地政学」とは名乗っていない

英米系地政学は、イギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダー(1861-1947)が確立したとされます。マッキンダーは、マハンが唱えたシーパワー論を踏まえ、古代ギリシャ・ローマから現在までに至る世界情勢をランドパワーシーパワーの対立構造として説明しました。

ハートランド
(public domain / wikimedia commonsより)

マッキンダーは、ユーラシア大陸の中枢部であるハートランドを拠点とするロシアが勢力を拡大していることに危機感を抱きました。ハートランドと欧州の緩衝地帯である東欧を抑える重要性を述べた次の一文は、さまざまな地政学本で引用されています。

東欧を制する者がハートランドを支配し、ハートランドを制する者が世界島を支配し、世界島を制する者が世界を支配する。

マッキンダー(2008: 177)

初期の地政学は間違いなく地理学と深く関わりながら展開してきました。マッキンダーはイギリスにおける最初の地理学科であるオックスフォード大学地理学科の創設メンバーですし、ハウスホーファーもミュンヘン大学で地理学の教授になっています。

なお、マッキンダーの場合、自らを「地政学者」と名乗ったことはなく、むしろ「地政学(geopolitik)」という用語を嫌ってすらいたようです。戦中の英米において、ハウスホーファーはナチス・ドイツを裏で動かす悪の親玉のように描かれており、彼が主導する「地政学(geopolitik)」に与することには強い忌避感があったと考えられます(高木 2020a: 259)。

一方、ハウスホーファーはマッキンダーを高く評価しており、自らの著作でマッキンダーを地政学者として位置づけています。そのため、マッキンダーは本人の意図に反して「地政学の祖」になってしまいました。

マッキンダーは、「地政学」という語を用いていなかっただけでなく、「ハートランド理論」といった厳密な学問体系の構築を行おうともしていませんでした。むしろ彼が積極的に行っていたのは、二度の大戦という状況下におけるイギリスへの政策提言でした。しかし、その意図とは裏腹に「マッキンダーの提言が母国イギリスの国家戦略に影響を及ぼし得たことを示す証拠は全く見つかっていない」(石津 2020a: 79)とされます(ただし、影響したとする文献もありました)。

3-3. スパイクマンのリアリズム

ニコラス・スパイクマン(1893-1943)はオランダ生まれのアメリカ人です。正しくは「スピークマン」と発音するそうですが、スパイクマンの表記が定着しているため、ひとまずここではそれに従います。

リムランド
(Nicolas Spykman - マケドニア科学技術アカデミー / CC BY-SA 4.0/ wikimedia commonsより)

スパイクマンはマッキンダーの理論を継承し、「リムランド」という概念を提唱します。これはマッキンダーがハートランドを囲む「内側の三日月地帯」として提示したエリアに相当します。マッキンダーは、ハートランド中央部に位置するランドパワー勢力と、その外側にあるシーパワー勢力の衝突地点として「内側の三日月地帯」をとらえました。

一方、スパイクマンは、ハートランドそのものは居住や農業に適さない土地としてそこまで重視せず、むしろ温暖で肥沃な土地をもつリムランドを中心に理論を組み立てました。そして、シーパワーであるアメリカはリムランドの国々と同盟を結び、ランドパワーの国々によるリムランドへの勢力伸長を抑えるべきという戦略を提示します。

第一次世界大戦までのアメリカは、他地域(ヨーロッパ)には干渉せず、自国の防衛に専念すべきという孤立主義を外交政策の基本としていました。WWⅠでその原則は崩れたものの、その後も依然として孤立主義は力を持っていました。これに対して、スパイクマンは介入主義をとります。積極的にリムランドに干渉し、勢力均衡(バランスオブパワー)をはかるべき、というのがスパイクマンの立場です。

こうしたスパイクマンの思想は、その後のアメリカの外交戦略に影響を与えました。冷戦期のアメリカは、外交官ジョージ・ケナンが提唱する封じ込め政策、すなわちソ連の拡大を防ぐために西ヨーロッパや日本に積極的に介入するという政策をとりましたが、その背景にはスパイクマンの理論があります。

スパイクマンの理論は「生存圏」のように領土支配を目指すものではありませんが、他地域への積極的な攻撃を正当化する点では共通しています。国際関係論には、国家による無政府状態な闘争という世界観をもつ攻撃的リアリズムの立場が存在します。その代表者であるミアシャイマーは、そうした思想の元祖としてスパイクマンの名前を挙げています(奥山 2020: 192)。

4. 領域的支配と関係的支配

大陸系地政学が領土の拡張を指向していたのに対し、英米系地政学は領土のような面的な支配は必ずしも重視しません。むしろ、海峡のような重要な拠点と、それぞれの拠点をつなぐルートという点と線での支配への指向が英米系地政学の特徴です。大陸系地政学=「圏域」重視/英米系地政学=「ネットワーク」重視という対比でとらえる人もいます(篠田 2023: 22)。

ランドパワーによる領域的支配とシーパワーによる関係的支配、という対比は、通俗的な地政学本にもよく登場します。農地が不可欠な重農主義と、通商ルートの確保が重要な重商主義、という対比が組み合わせられることもあります。そうした二項対立的な図式の問題点については、前回の記事で説明しました。図式的な理解は必ずしも実態を正しく反映したものではありませんが、各国の軍事戦略がどのような世界観に基づいて立てられているかを分析する上では、そうした道具立てが有用な場面もあると思います。

現在、日本で「地政学」と言ったときに一般に想起されるのは、ランドパワー、シーパワー、リムランドといった、英米系地政学の理論です。しかし、戦前は必ずしもそうではありませんでした。そうしたねじれた状況が生まれた背景については、こちらの記事で解説しています。

この記事は以上で終わりです。2分割した記事の前半部分なので、尻切れトンボな終わり方になっていますがご了承ください。

永太郎(Twitter:@Naga_Kyoto

参考文献

複数の項で参照した文献

『現代地政学事典』編集委員会 編(2020)『現代地政学事典』丸善出版   
 シュパング, クリスティアン(2020)「ハウスホーファー」252-253頁
 高木彰彦(2020a)「マッキンダー」258-259頁

篠田英朗(2023)『戦争の地政学』講談社
大陸系地政学/英米系地政学という図式で地政学を解説。現代の国際情勢をいかに分析するかについても書かれている。

庄司潤一郎・石津朋之編(2020)『地政学原論』日本経済新聞出版
防衛研究所関係者を中心として書かれた教科書。全体的には地政学を擁護する立場の本であるが、古典理論には批判的な記述も多い。
 石津朋之(2020a)「シー・パワーとランド・パワーと、そして...…—―マッキンダー」68-92頁
 シュパング, クリスティアン(2020)「大陸ブロック論と「大東亜共栄圏」構想—―ハウスホーファー」93-118頁
 石津朋之(2020b)「海を制する者は世界を制す?—―マハン」119-154頁
 奥山真司(2020)「「リムランド」と未来予測—―スパイクマン」187-213頁

地政学の古典

チェレーン, ルドルフ(阿部市五郎 訳)(1936)『生活形態としての国家』 叢文閣
マッキンダー, ハルフォード(曽村保信 訳)(2008)『マッキンダーの地政学:デモクラシーの理想と現実』原書房
ラッツェル, フリードリッヒ(由比濱省吾 訳)(2006)『人類地理学』古今書院

その他の文献

杉浦芳夫(2015)「中心地理論とナチ・ドイツの編入東部地域における中心集落再配置計画」『都市地理学』10, 1-33頁
シュパング, クリスティアン. W. (高木彰彦 訳)(2019)「カール・ハウスホーファーとドイツの地政学」『空間・社会・地理思想』22, 29-43頁
クリスタラー, ヴァルター(江沢譲爾 訳)(1969)『都市の立地と発展』大明堂
ホルダー, スヴェン(2000)「チェーレン, ルドルフ」(オロッコリン, ジョン編(滝川義人 訳)『地政学事典』東洋書林, 124-129頁)
山口幸男(2007)「ラッツェルとブラーシュに関する地理教育論的考察」『日本地理学会発表要旨集』2007s, 5頁
山口幸男(2008)「ラッツェル『人類地理学』に関する地理教育的論考察」『群馬大学教育学部紀要. 人文・社会科学編』57, 1-11頁


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